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ノルディア王太子レオニールが新国王として即位したという報せは、ガルディア公国の人々にとって、戦火の終結を告げる福音ではなかった。それは、冬の到来よりも冷たく、凍てつくような「死の予兆」として、国民の肌を直接刺した。
公国北部の地方都市、緊急避難所として徴用された小等学校の体育館。そこには、割れた窓から忍び込む北風に肩を寄せ合い、予備の蓄電池で細々と灯された電気照明の下で震える、数百人の避難民の姿があった。
「……ノルディアが再建を始めた、だと?」
アーク・リンクのノイズまじりの画面を食い入るように見つめていた一人の男が、喉の奥から絞り出すように呻いた。その震える指先は、画面に映るレオニールの清廉な顔を、憎悪を込めてなぞる。
彼らの脳裏に焼き付いているのは、わずか数日前、白銀の空を切り裂いて降り注いだ、あの「質量ゼロの光の槍」だ。都市結界を削り取り、大地を揺らした理外の暴力の記憶が、今や生き残った者たちの生存本能を狂わせていた。
「次は、結界のない俺たちの街が直接狙われる。あいつらが息を吹き返せば、次は一瞬で蒸発させられるんだ」
「首都だって同じだ。一度目は耐えたかもしれないが、二度目は……奇跡なんて、そう何度も起きない」
恐怖は、黴のように避難所の隅々にまで伝染し、肥大化していく。暖房の死んだ暗闇の中で、人々の思索は一つの残酷な結論へと収束していった。
──「専守防衛」という綺麗事では、もう自分たちの家族の命は守れない。
ガルディア軍務局、中央作戦室。
円卓の中央に投影されたホログラムには、不気味な真紅の警告色で強調された分析データが並んでいた。
情報局長セルヴェン・マリクレアが、冷徹に、そして意図的に強調された声で報告を続ける。
「ノルディアの残党は、崩壊した魔術塔の残骸から、魔力炉の核となる部材を回収しています。……分析の結果、これらは容易に魔力弾頭へと再転用が可能です」
軍務卿レグナード・ファルシオンが、重厚な軍靴の音を響かせ、玉座のエリシアへ詰め寄った。その瞳には、武人としての焦燥と、確信に満ちた熱が宿っている。
「陛下、ご覧ください。奴らは瓦礫の中から再び『槍』を研ぎ始めている。……いつ、どこで、我々の民が再び焼かれるか分からぬのですぞ!」
この情報は、意図的なリークによって瞬く間に全土へと拡散された。恐怖は、一瞬にして爆発的な「怒り」へと沸点を超えた。
首都ガルディアスの大通りは、プラカードを掲げた群衆で埋め尽くされている。かつては平和を謳歌していた市民たちが、今は拳を振り上げ、宮殿に向かって叫び続けていた。
「撃たれる前に叩け!」「女王陛下、我々を見殺しにするな!」「先制攻撃を許可しろ!」
これまで、特権的な守護を受ける首都と、放置された地方との間にあった深い溝。しかし今、その亀裂を「死への共通の恐怖」という名の強固なセメントが埋めていた。
「首都が落ちれば国が終わる。だが、地方が消えても国は死ぬんだ」
「我々は運命共同体だ。ガルディア全体が、北の狂気の標的にされている!」
国民の九割が「専守防衛の放棄」を支持するという、公国史上例を見ない強固な国民総意が形成された瞬間であった。
深夜の宮殿、バルコニーの影。
アレンは漆黒の瞳で、街を埋め尽くす怒りの波長を静かに観測していた。
人々の魔力波長が個性を失い、一つの黒い「殺意」の奔流として北へ向かって流れているのを感じる。
恐怖によって前頭葉が麻痺し、生存本能が理屈を上書きした。彼らにとって、先制攻撃こそが唯一の「安寧の処方箋」となっている。
……理の崩壊。外敵ではなく、内なる恐怖によって、この国は自ら姿を変えようとしている。
アレンは何も言わず、ただ自身の左手に嵌められた共鳴指輪の冷たい感触を確かめ、隣で不安げに銀髪を揺らすリィナの肩を、無言で引き寄せた。
「陛下。もはや国民の覚悟は決まっております」
軍務卿レグナードが、重厚な軍装を軋ませて公女王の前に跪いた。
「『専守防衛』という美徳が、今や国民を死へと追いやる呪いと化している。……奴らが再び火を吹く前に、その指を根元から叩き折る必要があります」
平和を望んでいたはずの文官たちも、もはや沈黙するしかなかった。
「……国民の支持がこれほどまでに強固では、反対する論理を持ち合わせておりません」
宰相リオネス・カーディルが、眼鏡の奥の瞳に苦渋を滲ませ、力なく首を振った。
議場は、戦うという「不可避の空気」に完全に飲み込まれていた。
公女王エリシアは、白く細い指先が白くなるほど、玉座の手すりをきつく握りしめていた。
(……私は、戦争を望まない。……けれど、国民を終わりのない恐怖に縛り付けたままにするのは、王の成すべきことではないのでしょう……)
数瞬の、死よりも深い沈黙。
エリシアはゆっくりと顔を上げ、冷徹なまでに澄み渡った青い瞳で議場を見渡した。
「……ガルディア公国は、本日この時を以て、『先制的自衛行動』を認めます」
一瞬の静寂の後。
議場を揺るがすほどの、地鳴りのような拍手と歓声が沸き起こった。
「陛下万歳!」「これで救われる!」
誰も「国が変わってしまった」とは言わなかった。あたかも、これが最初から唯一の正解であったかのように、室内の温度は異常なまでの熱を帯びていった。
エリシアは重い足取りで宮殿のバルコニーへと進み、全土へ向けて放送されるマイクの前に立った。
「ノルディアの脅威は、未だ去っていません。……専守防衛だけでは、皆さんの生命を守り抜くことは叶わない」
彼女の声は、夜の冷気に乗って、ガルディア全土のモニターとスピーカーを通じて国民の心に染み渡っていく。
「ガルディアは、先制的自衛行動を正式に認めます。……これは侵略ではありません。国民一人一人の命を最後まで守り抜くための、我ら全員の意志です!」
「陛下万歳!」「先に叩け!」「ガルディアを守れ!」
首都に、そして全土に、かつてない熱狂の叫びが轟いた。国民は、自らの手で「盾」を捨て、血に塗れることを厭わず「剣」を手に取ったのである。
周辺諸国は、この「沈黙の調停者」であったガルディアの急激な強硬化に震撼した。
「あのガルディアが、ついに牙を剥いた……」
だが、ガルディア公国内に迷いはなかった。
「これで安心して眠れる」と安堵の笑みを浮かべる地方住民。
「国を守るために必要な決断だ」と冷徹に頷く首都の市民。
軍部は「合法的な攻撃」という免罪符を得て、狂ったように軍靴を磨き、次なる戦いのための牙を研ぎ始める。
ガルディア公国。
唯一の特級魔軌士アレンを擁するその国は、今、自らの意志で「平和」という名の殻を脱ぎ捨て、「戦争前夜」の暗い深淵へと、その足を踏み入れたのである。




