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サハリス砂漠王国からの帰還。
アレン専用転移室の重厚な石造りの扉が左右に開かれた瞬間、肺に流れ込んできたのは、つい数週間前まで知っていたはずの穏やかな宮殿の空気ではなかった。
アレンは一歩踏み出し、無機質な廊下に響く異質な「音」を捉えて足を止めた。
「……空気が変わったな」
短く呟いた彼の漆黒の瞳が、廊下の先を鋭く射抜く。
そこには、書類の束や魔導端末を抱え、必死の面持ちで走り抜ける軍務局の職員たちの姿があった。
石床を激しく打つ軍靴の音は、平時の規律正しい響きではなく、焦燥と混乱が混ざり合った不協和音となって回廊に反響している。
窓の外に視線を向ければ、首都の象徴である白亜の宮殿を守護する魔術塔の頂に、不吉な紅蓮の警戒灯が灯っていた。
その禍々しい光は、秋の夕暮れに染まり始めたガルディアスの街並みを、血のような赤で塗り潰している。
リィナが、隣を歩くアレンの横顔を不安げに見上げた。
彼女の優れた直感は、宮殿全体を包む「冷たい熱気」を敏感に感じ取っていた。
「アレン様……。宮殿の中が、まるでお祭りの前のような……いいえ、もっと鋭く、肌を刺すような緊張に包まれています」
「戦争前夜、というやつだ」
アレンの言葉に応じるように、彼の手元の魔導端末──アーク・リンクが小刻みに、そして執拗に震えた。
画面には、公国全土に配信された緊急速報が躍っている。
『緊急速報:ノルディア王国、大使召還。強硬声明を発表』
ガルディア公国の北側に位置し、広大な氷雪地帯を領土とするノルディア王国。
かつてより国境線や迷宮資源の分配を巡り、公国とは幾度も火花を散らしてきた歴史的対立国である。
その「北の獅子」がついに、喉元を狙って牙を剥き始めたのだ。
セリスは自身の端末に表示された詳細情報を凝視し、薄い唇を強く噛んだ。
軍人としての冷静な分析が、彼女の青い瞳を鋭く研ぎ澄ませていく。
「……ただの国境紛争で済ませる気はないようですわね。外交手順を幾つも飛び越えている……敵の動きが早すぎますわ」
軍務局専用ゲートへと続く回廊を進む三人の前に、武装した衛兵が立ちはだかった。
しかし、彼らは三人の姿を認めるなり、弾かれたように背筋を伸ばし、かつてないほどの緊張感を持って最敬礼を捧げた。
「特級魔軌士、アレン様。および誓約者リィナ様、セリス様。帰還を確認しました。……お急ぎください。既に重鎮の方々は揃っております」
「ああ。分かっている」
アレンが短く応じ、ゲートを潜る。
その先に広がっていたのは、もはや行政機関のそれではなく、剥き出しの「戦場」そのものだった。
「暗号キー、第四層へ更新! 急げ!」
「物流ラインの軍事優先への切り替え、女王陛下の承認はまだか!」
怒号に近い指示が入り乱れ、いたるところでホログラムのウィンドウが乱舞している。
壁一面を埋め尽くす大型モニターには、雪原を背景にしたノルディアの声明放送が繰り返し流されていた。
三人が姿を現した瞬間、局内にいた職員たちの視線が一斉にアレンへと集まった。
ガルディア最強の矛。唯一の特級。
彼がいるという事実だけが、崩壊しかけていたこの空間の均衡に、微かな、けれど確固たる安寧をもたらしていた。
評議会場へ続く回廊。壁際で小声で情報を交換する職員たちの声が、アレンの無意識の魔力感知によって拾い上げられる。
「……外務卿が、帰国したばかりの大使と極秘に面談したそうだ」
「声明の内容は……事実上の宣戦布告に近いという噂だぞ」
「陛下もすでに執務室へ入られた。軍務卿から全軍への招集命令が出たらしい」
(エリシア陛下まで動いたか。いよいよ、後戻りはできないな)
案内された控室の巨大なモニターには、ノルディア国王、ヴァルターの冷徹な姿が映し出されていた。
『──我々は、ガルディアの不当な挑発に対し、深刻な懸念を表明する』
濁った青い瞳に、狂気にも似た傲慢さを宿した王の声が響く。
『国民の安全を守るため、あらゆる選択肢を排除しない構えである』
「あらゆる選択肢」。それは、武力行使という名の代名詞。
セリスは腕を組み、氷のような冷ややかな視線で画面を睨み据えた。
「……外交的な対話は、最初からポーズに過ぎませんわ。あちらは既に戦う準備を終えています。……最悪のシナリオを想定すべきです」
アレンは沈黙し、窓の外に広がる首都の景色を眺めた。
平和だった日常が、指の間から砂のように零れ落ちていく感覚。
「アレン様……」
リィナがそっと、アレンの大きな手を握った。
彼女の細い指先が、わずかに震えているのをアレンは感じ取った。
彼は何も言わず、ただ静かに、その手を優しく握り返した。
「失礼いたします」
軍務局の職員が、重厚な扉を開けて姿を現した。
「アレン様、リィナ様、セリス様。軍務評議会の準備が整いました。御三方の出席を、軍務卿一同がお待ちです」
アレンは一度だけ深く息を吐き、黒髪を無造作にかき上げた。
「行こう」
三人の歩みに合わせ、冷徹な軍靴の音が石床に力強く刻まれた。
その先にあるのは、公国の運命を、そして世界の「理」を左右する、重い決断の扉であった。




