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迷宮『幻砂冥廊』、二十一階層の安全地帯。
そこは砂塵の音さえ届かない、不気味なほどの静寂に包まれていた。
岩壁の隙間から染み出す魔力光が、冷たい石床の上で休息を取る三人の影を細長く落としている。
「……今日も掛け直しますね。アレン様、セリス」
リィナが銀髪を指先で整え、凛とした大人の女性の佇まいでアレンとセリスに向き合った。
彼女が掌をかざし、静かに魔力を編み合わせる。
それは、迷宮の「精神干渉」という理から魂を切り離すための儀式。
──《三重魔導護膜》。
三人の身体を、淡い白銀の燐光が優しく包み込んでいく。
物理的な砂の重圧、魔術的な干渉、そして内側から精神を削る衝撃──。
それらを個別に遮断する多層の膜が定着したのを確認し、アレンは歩き出した。
安全地帯を出た瞬間、大気の「重さ」が物理的な質量を伴って変化した。
砂の壁が心臓の鼓動のように不規則に震え、角の向こう側からは無数の魔獣が放つ湿った熱気と、剥き出しの殺意が押し寄せてくる。
だが、その直後だった。
「──キシャァァァァッ!?」
前方の曲がり角から飛び出そうとした砂棲の魔獣たちが、アレンの姿を視認した刹那、断末魔のような悲鳴を上げた。
彼らは攻撃の手を止めるどころか、まるで太陽に焼かれる雪のように、我先にと暗がりの奥へと反転し、砂を巻き上げて逃げ去っていく。
「……えっ……?」
「今、アレン様を見た瞬間に逃げましたわよね……?」
リィナが呆然と呟き、セリスが驚愕に青い瞳を揺らす。
アレンは漆黒の瞳を細め、逃げていく砂塵を冷淡に眺めながら、事もなげに応じた。
「気のせいだろ。ほら、先を急ぐぞ」
しかし、それは決して気のせいではなかった。
アレンが通路を一歩進むたび、前方で待ち構えていた気配が霧散し、壁際に追い詰められた魔獣は砂に溶けて同化し、震えながら「存在を消そう」と必死に足掻いている。
(……魔獣は魔力感知が鋭い。俺の魔力を『捕食者』ではなく、世界の理そのものを上書きする『危険物』だと判断しているのか)
アレンは内心で自身の異質性を再認識していたが、それを口にすることはなかった。
魔獣がアレンを避けるため、二人の戦闘機会が極端に減ってしまう。
「実力を試したい」と意気込んでいた二人の誓導者は、ついにアレンに強硬手段を願い出た。
「アレン様、お願いです、少し後ろに下がっていてください!」
「私たちだけで、ちゃんと戦いたいんですわ! これでは修行になりませんもの!」
二人はアレンから三十メートル以上の距離を取り、敢えて自分たちの魔力を周囲に霧散させ、魔獣を引き寄せる戦術をとる。
「……わかった。無理はするなよ」
アレンが距離を置くと、ようやく「理外の脅威」が去ったと判断した魔獣たちが、飢えた獣の本能を取り戻して姿を現した。
だが、そこには特級No.11に鍛え上げられた、二人の誇り高き戦士が待ち構えていた。
リィナは光盾の形状変化をミリ単位で制御し、魔獣の猛攻を受け流しながらセリスの死角を完璧に埋める。
セリスはその安定した防御を背に、複合属性魔術を次々と叩き込んだ。
「──《氷槍》! 続けて、《嵐雷撃》!」
氷の槍が魔獣の足を止め、直後に放たれた風と雷の合技がその巨体を内側から粉砕する。
後方で見守るアレンの目には、二人の連携がもはや「二人一組」としての完成形に近づいているのが見て取れた。
二十二階層に入ると、異常は迷宮の「構造」そのものにまで波及した。
アレンが歩く先では、砂の壁の脈動がピタリと止まり、精神を惑わすはずの幻影が音もなく霧散していく。
流れる砂の滝さえも、アレンの足元を避けるように左右二手に分かれ、彼が通り過ぎた後にようやく元の流れに戻るという、物理法則の拒絶。
「……迷宮そのものが、アレン様を避けているようですわ」
「アレン様の周りだけ……まるで、別の世界の理で動いているみたいです」
「気のせいだ」
短く切り捨てるアレンだが、二人はもはや信じていない。
彼が持つ、魔術式という「道具」を介さない魔力直接操作が、迷宮の基盤となる法則さえも力づくでねじ伏せているのだ。
二十三階層に至っては、魔獣は姿を見せることさえ拒んだ。
アレンの気配を僅かにでも察知した瞬間、通路の先で何かが慌てて逃げ去る、砂が擦れる乾いた音だけが響く。
「アレン様、もっと……もっと離れていてください!」
「姿を見せずに逃げられては、本当の強敵と戦えませんわ!」
二人の必死の訴えに、アレンは溜息混じりにさらに距離を置く。
離れた場所で展開される、烈火と白銀の閃光。
リィナの障壁が精神干渉を完全に無効化し、セリスの《光槍》が闇に潜む敵の核を正確に貫く。
やがて、二十三階層の最奥。
三人の前に、これまでとは比較にならないほど巨大な、砂を固めて作られた「二枚の門」がそびえ立った。
その先が、二十四階層。
上級魔軌士の探索隊が幾度も敗北を喫し、現代魔術の理論が通じないとされる、死の「深層」の入り口だ。
「……アレン様。私たち、ここまで来られました」
リィナが汗の滲んだ拳を握り締め、真っ直ぐに主を見上げる。
その瞳には、かつての弱気な面影はなく、守るべき者のために戦う女性の意志が宿っていた。
「次は……二十四階層ボスですわね。準備はできていますわ」
セリスもまた、乱れた金髪を払い、不退転の決意を青い瞳に宿して頷いた。
「ああ。二人ならできるはずだ。俺は……変わらず、後ろで見ているよ」
アレンの信頼の言葉に、二人は頬を上気させ、立派な誓導者の顔で力強く応じた。
未攻略の領域を切り拓くための、真の試練が、いま幕を開けようとしていた。




