10-3
迷宮『幻砂冥廊』の中層。外界の苛烈な太陽光さえ届かない地下深く、魔力によって維持された安全地帯の冷たい石畳の上で、三人は静かな朝を迎えた。
室内の空気は乾燥し、砂の微粒子が魔石灯の光に反射してキラキラと舞っている。
「……アレン様、セリス。今日も掛け直しますね」
リィナが銀髪をかき上げ、凛とした表情でアレンとセリスに向き合った。
彼女が掌をかざすと、空間に繊細な魔力の糸が紡がれ、幾何学模様の陣が編み上げられていく。それは彼女が毎朝欠かさない「儀式」──最上位の防御術式であった。
「ああ、頼む」
「いつもありがとうございます、リィナ。……おかげで、この不気味な空気の中でも正気を保てますわ」
淡い白銀の光が三人それぞれの身体を優しく包み込み、体表わずか一センチの距離で三層の透明な膜が定着した。《三重魔導護膜》。
物理的な砂の侵入、有害な魔力残滓、そして精神を蝕む闇の波動を遮断するこの絶対防御は、一歩先が底なしの奈落であるこの迷宮において、三人の命を繋ぐ確固たる「境界線」となっていた。
三人は、新調した紺銀の軍服が届く十月下旬を待ち遠しく思いながらも、現在はそれぞれの最高級戦闘衣装に身を包み、中層の奥深くへと足を踏み入れた。
十六階層を越えたあたりから、迷宮はその「精神を喰らう」という本領を剥き出しにし始めた。
砂でできた壁が生き物のように不規則に蠢き、視界の端では、かつての知人や故郷の風景が幻影となってゆらゆらと揺れる。
耳元で誰かが甘く囁く声。背後から迫る、質量を持たない無数の足音。
土と闇の属性が濃密に混ざり合う『幻砂冥廊』特有の精神汚染が、容赦なく侵入の隙を伺っていた。
「……っ。大丈夫、私のバリアが守ってくれてる……」
リィナは微かに肩を震わせ、ショートロッドを握りしめながらも、自身の構築した防御を信じて前を見据える。
彼女の隣では、セリスが鋭い眼差しで周囲を警戒し、いつでも迎撃できるようレイピアの柄に手をかけていた。
対照的に、アレンの周囲だけは、不気味なほどに空気が澄み渡っていた。
彼が放つ、現代魔術の枠組みを無視した「理外の魔力」が、迷宮の悪意に満ちた干渉を無意識のうちに押し返しているのだ。アレンが歩く先では、精神を惑わす霧が霧散し、砂塵さえも彼を避けるように左右へと分かれていく。
「……アレン様の近くにいると、幻が薄くなりますわ。迷宮そのものが、あなたを拒絶しているかのようです」
「そうか? ……気のせいだろ。ほら、先を急ぐぞ」
セリスの鋭い指摘をアレンは淡々と流すが、リィナとセリスは確信していた。主の存在そのものが、この世界の「理」を上書きし、迷宮の法則を書き換えているのだと。
階層を重ねるごとに、二人の戦士としての連携は劇的な進化を遂げていた。
リィナは敵の攻撃を防ぐだけでなく、光盾の形状をミリ単位で瞬時に変化させ、セリスが魔術を放つための「砲門」を構築する。
セリスもまた、その隙を逃さず、複合属性魔術を予備動作なしで叩き込んでいく。
「──《氷槍》!」
「続けて風を! 《真空刃》!」
氷の槍が魔獣を凍りつかせ、直後に放たれた真空の刃が、脆くなった敵の核を粉砕する。
二人はもはや「守られる存在」ではなく、アレンを支える「対等の双翼」として、その覚悟を戦果で示していた。
(……二人とも、動きに迷いがなくなったな。既に上級魔軌士の領域に達している)
アレンは内心で、自分を追う二人の背中に確かな合格点を与えていた。
だが、第十九階層。ついにこの迷宮の深層部を予感させる異形、砂の巨獣が姿を現した。
身長数メートルに及ぶ砂の塊が、不気味な咆哮と共に鋭い爪を振り下ろす。
「っ……、来ますわ!」
リィナが障壁を最大出力で展開した。
ギチッ、と硬い破壊音が響き、受ける衝撃によって護膜の外層に初めて微かなひびが入る。
「リィナ、今のうちに! 《雷連撃》!」
セリスが放つ紫電の多段ヒットが巨獣の動きを強引に縛り付け、間髪入れずにリィナが障壁の一部を開放した。
「セリス、核が見えました! 《火槍》を!」
「任せてください! ──消えなさいッ!」
炎の槍が巨獣の胸部にある魔力の核を貫き、十数メートルを超える巨躯は音もなく砂塵へと還った。
二十階層──中層の最終階層。
最も濃密な精神干渉の霧の中、二人は言葉による指示を必要としないほどの完璧な連携を見せた。
リィナが敵の意識を惹きつける陽動となり、セリスが《光槍》の一撃で全てを終わらせる。
「よくやった。二人とも、強くなったな」
アレンの短い、だが本物の賞賛が迷宮の静寂に響いた。
その言葉を受けた二人は、互いに照れくさそうに、けれど立派な誓導者としての誇らしげな微笑みを交わし合った。
目の前には、深層──二十一階層へと続く巨大な階段が口を開けていた。
迷宮そのものが、アレンという「天敵」に戦慄し、その通路を震わせているのも知らず、三人はさらなる奈落へと足を踏み出した。




