10-1
女神歴二一九六年、十月上旬。
九月が過ぎ、ガルディア公国には穏やかな秋の風が吹き抜けていた。
首都ガルディアスの公国宮殿。その一角に用意された豪華な応接室で、アレン・ヴァルグレイは身体を深紅のソファに沈め、無機質な天井の細工を眺めていた。
九月の「初仕事」以来、アレンには具体的な任務が一切与えられていない。
「アレン殿のような国家の守護者に、些末な雑務をさせるなど恐れ多い」
公国重鎮たちの間に広まったそんな過剰なまでの敬意と、特級No.11という番号への畏怖が、皮肉にも彼を完全な「暇」へと追い込んでいた。
(……魔力の循環が、凪いでいるな)
アレンの「理外の視界」には、自身の内側を流れる膨大な魔力が、出口を失って澱み始めているのが見えていた。
戦いの中に身を置くことでしか維持できない「理」の整合性。
それが、この平和すぎる宮殿の空気によって、じわじわと摩耗していく感覚。
「アレン様。……また、天井と睨めっこですか?」
銀髪を揺らしながら、リィナが盆に乗せたクッキーと精霊茶を運んでくる。
彼女は主の横顔に浮かぶ僅かな倦怠を敏感に察知し、困ったような、けれど慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ああ。身体が鈍りそうだ。……平和なのはいいことだがな」
アレンが身を起こすと、背後に控えていた金髪の女性、セリスが凛とした声で言葉を継いだ。
「同感ですわ、アレン様。公国の軍部も、あなたに遠慮して演習の誘いさえ出してこない有様……。あなたの力を正しく振るえる場所が、今はこの国にはありませんわ」
セリスの青い瞳には、主と共に戦場を駆けたいという、魔術師としての純粋な渇望が宿っている。
リィナがアレンの隣に座り、そっと袖を引いた。 [Source 1, 158]
「アレン様、そろそろ迷宮へ行きませんか? 二人で……いえ、三人で」
「……そうだな。南の迷宮へ行くか」
アレンの決断は速かった。
ターゲットは、南の大陸にあるサハリス砂漠王国。
四大迷宮の一角として知られ、精神を蝕む禁忌の領域──**『幻砂冥廊』。
ガルディア国際空港。
ターボファンエンジンの低い唸りが響く滑走路に、公国最高級の魔導旅客機が待機していた。
タラップを上がる三人の姿は、見送りの職員や居合わせた魔軌士たちの視線を釘付けにした。
「……おい、あの三人……ガルディアの『象徴』じゃないか?」
「間違いない、真ん中の男……特級No.11、アレン・ヴァルグレイだ」
通路を通り過ぎる際、一般客たちが息を呑み、道を空ける。
搭乗していた中級魔軌士の一人は、アレンから漏れ出す「底知れない魔力の密度」に当てられ、震える手で自身のアーク・リンクを強く握りしめていた。
西の大陸から南の大陸への旅は、十二時間を要する長旅である。
高度一万メートルを飛ぶ機内で、アレンは閉じた瞳の裏で、これから挑む迷宮の構造をシミュレートしていた。
南の大陸、サハリス砂漠王国の首都サハラーム。
ハッチが開いた瞬間、肺に流れ込んできたのは、全てを焼き尽くすような乾燥した熱風と、細かい砂の粒子だった。
白亜のガルディアとは正反対の、黄土色と石造りの街並み。
三人は空港を後にすると、砂漠のオアシスの如くそびえ立つ最高級ホテル『ヴァルシオン・ホテル』へと向かった。
「魔軌士専用スイートの年間契約、手配通り完了しました。……アレン様、お疲れではありませんか?」
事務処理を完璧にこなしたリィナが、ルームキーをアレンに手渡す。
広大な客室に入ると、アレンは窓際まで歩み寄り、無言で指先を空間に触れさせた。
「……座標を記憶した。これで、いつでもここへ戻れる」
《空間転移》。
アレンが独自に完成させた理外の魔術により、他の都市からでも瞬時にこの部屋へ帰還することが可能となる。
一時の休息の後、三人は物資の調達のため王都の市場へと繰り出した。
「精神を喰らう」と言われる迷宮に備え、一か月分の水と保存食、そして特製の防塵装備を揃えていく。
「合計で四十二万エルになります……」
専門店での支払いの際、老練な店員の手が止まった。
彼の視線は、アレンという「暴力の中心」と、その両脇で完璧な魔力循環を維持する二人の誓導者に注がれていた。
一般人は「美しい三人組」と見惚れるだけだが、死線を潜ってきたプロは悟る。
その立ち姿、重心の置き方、そして周囲の空気を歪ませるほどの魔力圧。
これこそが、大陸の均衡を塗り替えた「理外の力」そのものであると。
翌朝、三人はサハラームの魔軌士支局へと足を運んだ。
局内は、迷宮から運び込まれた負傷した魔軌士たちの呻き声と、焦げ付いた魔力の匂いで満たされ、混沌としていた。
「……『幻砂冥廊』の情報、ですね。……っ!?」
受付の職員は、アレンが提示したアーク・リンクに刻まれた『No.11』の文字を見た瞬間、石像のように硬直した。
震える手で差し出された最新の観測ログは、悲惨な内容だった。
・二十四階層ボス:未到達(上級探索隊の全滅報告あり)
・二十一階層以降:行方不明者あり
・精神異常を訴える帰還者が急増中。回復の見込みなし
「お気をつけて……。『幻砂冥廊』は、他の迷宮とは魔力の『質』が違います。挑んだ者の半分は、己の正気を失って戻ってくるのです……」
「問題ない」
アレンは短く答え、情報の詰まった端末をアイテムボックスへと収納した。
砂漠の夜明けは冷たく、それでいて鋭い。
地平線の先、朝日を浴びて巨大な砂の神殿がその姿を現した。
それは大地が大きく口を開けたような、精神を喰らう奈落への入り口。
「行くか」
「はい、アレン様。準備はできています」
「どこまでも、ご一緒いたしますわ」
乾いた砂を踏みしめる三人の靴音だけが、静寂の中に響く。
理外の男と、彼を支える二人の誓導者。
新たな神話のページが、今、サハリスの熱風と共に開かれようとしていた。




