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女神歴二一九六年、九月上旬。
一人の男の去就という名の巨大な石が、エルディア全土という静止した水面に投げ込まれた。
その波紋は、単なる一魔軌士の動向という枠組みを遥かに超え、数百年の歴史を積み上げてきた大陸の軍事バランスを、その根底から軋ませ、揺るがしていた。
中央大陸南部、世界樹の息吹が満ちるアルヴェリア王国。
王都アルヴェンの魔軌士局支局長室は、精霊の加護を受けた爽やかな外気とは無縁の、重苦しい焦燥に塗りつぶされていた。
「……アレン殿は、まだ来ないのか?」
重厚な黒檀の執務机を、指先で苛立たしげに叩きながら、国王レオニス・アルヴェリアが問う。
その声音は、常に「調和」を重んじる温厚な彼にしては珍しく、隠しきれない尖った響きを帯びていた。
あの日、人類未踏域である「四十階層ボス魔石」という、国宝をも凌駕する至宝を贈り物として受け取って以来、アレン・ヴァルグレイの足取りはぷっつりと途絶えていた。
「は、は……。王宮へは、一日のうち何度も同じ報告を差し上げておりますが……」
支局長レイフォルト・ハーグレンは、青ざめた顔で自身の胃のあたりを痛そうに押さえた。
彼のこめかみには、慢性的な胃痛とプレッシャーによる脂汗が滲んでいる。
喉の奥まで出かかっている「知らん、そんなことは俺が一番知りたい!」という叫びを、彼は行政官としてのプライドで辛うじて飲み込んでいた。
迷宮資源を国家運営の核とするアルヴェリアにとって、深層を「散歩」するアレンという存在は、喉から手が出るほど欲しい唯一無二の戦略資源に他ならない。
だが、彼らが誇る換金窓口には、今日もただ虚しい静寂と、自動扉の開閉音だけが流れていた。
同じ頃、東大陸。軍事大国ヴァルゼン帝国の皇宮。
鉄の錆と、高出力魔導兵器から漏れ出す焦げ付いたオゾン臭が漂う「円卓の間」を、一振りの咆哮が切り裂いた。
「……まだか! No.11 の動向を、未だ掴めぬというのかッ!」
皇帝ダリオス・ヴァルゼンの重低音が、厚い石壁に反響し、場を凍りつかせる。
彼の脳裏には、あの日、謁見の間に居並ぶ帝国の精鋭を赤子の手をひねるように退け、「国を地図から消す」と静かに言い放った黒髪の青年の姿が、屈辱と共に焼き付いていた。
あの謁見を境に、アレンは帝都のホテルからも、帝国の監視網からも、霧が消えるようにその姿を消していた。
「も、申し訳ございません。ギルド側でも、各支局の入退室ログを精査しておりますが……」
イグナイト支局長ガウス・ヴァルドレーンは、重厚な軍服を冷や汗で濡らしながら、床に額を擦り付けて平伏していた。
皇帝の威圧も死ぬほど恐ろしいが、あの「死神」の如き無機質な瞳を持ったアレンが、二度とこの国に慈悲をかけることはないであろうことを、現場で彼と対峙したガウスだけは、痛いほどに理解していた。
そして、運命の九月二日。
魔軌士局の国際魔力ネットワークを通じて、全世界の人々が持つアーク・リンクに、一つの「公式公示」が駆け巡った。
『特級魔軌士 No.11 アレン・ヴァルグレイ。ガルディア公国と正式雇用契約を締結』
端末に映し出された青白い文字情報は、単なる契約の事実以上に、各国の指導者たちを戦慄させた。
雇用主の欄には、西大陸の雄「ガルディア公国」。
そして、その下に列記された二名の誓導者の名が、歴史的な衝撃を物語っていた。
『第一誓導者:リィナ・フェルウェン』
『第二誓導者:セリス・ヴァレンティア』
ヴァルゼン帝国の軍務院。報告書を突きつけられた重鎮たちは、声もなく絶句していた。
「ガルディアに……? なぜだ、我が国ではなく……よりによって、あの小国にか……!」
その動揺は、世界最強を自負する最上位の特級魔軌士たちにも波及していた。
序列第一位、ヴァルツ・レグナスは、執務室で報告書を眺めながら、不敵な表情を崩さなかった。
だが、その拳は力強く握りしめられ、鋼の如き腕からは一筋の冷や汗が流れていた。
(……あの日、皇宮で仕掛けたのが私だけで済んで良かった。あれと本気で戦うなど、正気の沙汰ではない)
序列第十位、ガルド・エルネストは、自身の担当階層である二十八階層の巨大な魔導門を前に、自身の無力感に震えていた。
「……化け物め。俺が血を吐く思いで挑み、それでも届かない深淵を……」
アレンが「散歩」のついでに踏み越えていったという冷酷な事実が、努力型天才である彼の自尊心を、音を立てて粉砕しようとしていた。
対照的に、序列第十二位のグラウス・ラインハルトは、窓の外の月を見上げながら、静かに、そして深く溜息を吐いた。
アレンの加入により、自身の国際序列が一つ繰り下げられた。
だが、あの日、皇帝の前で繰り広げられた「理外の暴力」を目の当たりにした彼にとって、それはむしろ当然の、そして幸運な裁定にさえ感じられた。
「……繰り下げで済んだのが、最大の幸運だった、というわけか」
「むぅ……やはり、先を越されたか」
アルヴェリア王レオニスは、苦笑混じりに深く椅子へと体を沈めた。
「誓導者が二人……しかも一人は元公国の『至宝』セリス殿。これは戦力が単なる足し算ではなく、掛け算、いや、倍増しておりますな」
重鎮たちの分析は冷徹だった。
ガルディアが手に入れたのは、単なる一人の強力な魔軌士ではない。
歴史的な強者のみが確立し得る「複数誓約」という安定した魔力基盤を手に入れた、理外の暴力そのものだった。
国際情勢は、この公示を境に劇的な変化を見せ始める。
ガルディア公国の国際的評価は天を衝く勢いで急上昇した。
特級 No.11 を擁し、二名の誓導者による絶対的な魔力安定度を持つ国家。
公女王エリシア・ヴァルステイン・ガルディアの政治的手腕は、大陸全土に「恐るべき調停者」として知れ渡ることとなった。
その一方で、帝国は深刻な焦燥に駆られていた。
深層攻略の停滞。最強を自負していた魔軌士たちの士気低下。
そして何より、たった一人の「余所者」に威信を傷つけられた皇帝の威厳は、民衆の目に見えて揺らぎ始めていた。
そして、西大陸南西、バルムート王国の魔軌士局本局。
総務局が管理する「特別監視枠」の最上位に、アレン・ヴァルグレイの名が太字で刻まれた。
『当該個体の動向は、単独で世界情勢を左右しうる。最優先で監視を継続せよ』
世界がその一歩一歩に怯え、戦慄し、固唾を呑んで見守る中。
当のアレン・ヴァルグレイは、首都の屋内訓練場にて、ただ静かに木刀を振り下ろしていた。
空気を切り裂く鋭い音が、無機質なドームに響き渡る。
彼にとって世界の混乱などは、迷宮の土埃を払うことよりも、遥かに優先順位の低い事象に過ぎなかった。




