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女神歴二一九六年、九月二日。
首都ガルディアスの朝は、前日の喧騒を洗い流すような清々しい風と共に明けた。
白亜の石造りの街並みを縫うように走る水路は、朝日を受けて宝石のようにきらめき、行き交うゴンドラが立てる穏やかな波音が、国家中枢である宮殿の石畳にも微かに届いている。
アレンは身体を揺らし、漆黒の戦闘衣を纏って宮殿の廊下を悠然と歩いていた。
その左右には、銀髪をなびかせた第一誓導者のリィナと、凛とした金髪の第二誓導者セリスが付き従っている。
二人の女性が纏うのは、毎朝の「儀式」としてリィナが施した《三重魔導護膜》。
体表わずか一センチを覆う不可視の術式が、公国最強の二人一組──いや、三人一組としての無言の威圧感を放っていた。
公女王執務室の、歴史を感じさせる重厚な木製の扉が左右に開かれる。
室内に漂うのは、高級な紙と仄かなインクの香り。
デスクの向こう側に座る公女王エリシアは、三人の姿を認めるなり、その美しい貌に深い安堵の色を湛えた。
「アレン殿。……今日から、よろしくお願いいたしますね」
エリシアの言葉は穏やかだったが、その瞳の奥には、一国の元首として民を背負う切実なまでの重圧が宿っていた。
「何かあった時は、必ずお呼びします。どうか……このガルディアを、民をお守りください」
アレンはエリシアの真っ直ぐな視線を真正面から受け止め、短く、けれど確固たる意志を込めて応じた。
「ああ。通常の連絡はリィナかセリスに。緊急なら、その指輪に魔力を流してくれ。……必要なら、すぐに駆けつける」
アレンは自身の指に嵌められた『共鳴指輪』を軽く示した。
エリシアの右手の薬指にも、同じ意匠の指輪が光を湛えて収まっている。
その光景は、単なる雇用主と被雇用者の関係を超えた、魂の結びつきを予感させるものだった。
そこで、アレンはふと思案するように、わずかに眉根を寄せた。
「それと、相談がある。……宮殿のどこかに、俺専用の『転移部屋』を用意してほしい」
「転移、ですか……?」
エリシアが目を見開く。
「秘匿しておきたいから、重鎮だけの秘密だ。……専用の部屋に座標を記憶しておけば、俺が世界のどこにいても、一瞬でここへ来られる」
アレンの淡々とした説明に対し、エリシアは言葉の重みを噛みしめるように深く、深く首首肯した。
アレンという「国家最強戦力」が、距離という理を無視していつでも駆けつける。
それはガルディア公国にとって、どんな核兵器や大軍勢をも凌駕する、絶対的な抑止力となることを彼女は瞬時に理解したのだ。
打ち合わせを終え、廊下へ出た三人を待っていたのは、筋骨隆々とした巨躯を誇る軍務卿だった。
彼はアレンを見上げ、値踏みするような、けれど期待を隠しきれない鋭い眼光を投げかけた。
「アレン殿。魔術師団と騎士団にも、その実力を示していただきたい。……彼らに、自分たちが誰に守られ、誰を仰ぐべきかを教える必要があります」
「……手加減は苦手だが、やってみるよ」
アレンの言葉に、軍務卿は「それは楽しみだ」と短く笑い、先導した。
軍靴の音が、無機質な石造りの廊下に規則正しく反響する。
辿り着いたのは、公国宮殿の地下に広がる、巨大なドーム状の屋内訓練場だった。
場内には、公国魔術師団の精鋭数十名が整然と列を成していた。
彼らが纏う魔術衣からは、鍛錬の成果である濃密な魔力の波動が漏れ出しており、室温を数度押し上げている。
アレンは整列した魔術師たちを一瞥し、隣のセリスに尋ねた。
「特級魔軌士は、他に誰もいないんだな」
「ええ……扱いに困りまして。これまでは私が、実質的なトップとして彼らをまとめていましたわ」
セリスが苦笑を浮かべて答える。
公国の「至宝」と謳われた彼女でさえ、アレンの理外の魔力の前では一人の従順な誓導者に過ぎないという事実に、魔術師団の面々には隠しきれない動揺が走っていた。
「では、遠慮なく行かせてもらう!」
魔術師団長の号令が、広大な訓練場に響き渡る。
その瞬間、数十名の魔術師が同時に術式を展開した。
空中に幾重もの複雑な幾何学模様が浮かび上がり、火、水、雷──多属性の攻撃魔術が奔流となってアレンへと殺到した。
直感 → 分析 → 沈黙。
アレンは動かなかった。
迫り来る死線の色彩を、ただ漆黒の瞳に映している。
──パチン。
アレンが軽く指を鳴らした。
その乾いた音が空間を叩いた刹那、数千、数万の魔術式によって構成されていた攻撃の奔流は、アレンに触れる寸前で、まるで幻影であったかのように跡形もなく霧散した。
魔術を成立させるための「理」そのものを剥離させる《魔術消去》。
「……え?」
「消えた……だと?」
詠唱も、予備動作もなく、ただ世界から魔術という現象が削除された。
絶句する魔術師たちをよそに、アレンは右手を無造作にかざした。
「──《衝撃制御》」
それはアレンにとって、これ以上ないほど「弱く」放った一撃だった。
だが、精密に制御された魔力波は不可視の嵐となり、数十人の精鋭を木の葉のようにまとめて吹き飛ばした。
魔術師たちは床を転がり、背後の壁まで押しやられて沈黙した。
怪我はない。骨折一つ、打撲一つ負っていない。
ただ、抗うことのできない「純粋な暴力」の質量に、彼らの心は真っ向からへし折られた。
「……っ……これが、No.11。……いや、それ以上か……」
軍務卿が、恐怖と歓喜が混ざり合った震えを押し殺すように呟いた。
「アレン殿。次は剣での手合わせをお願いしたい」
場の中央に進み出たのは、甲冑を軋ませる騎士団長だった。
彼は一本の練習用の木刀を、恭しくアレンへと差し出した。
「……剣か。真面目に向き合うのは初めてだが……いいだろう」
アレンがその木刀を受け取り、軽く握った瞬間。
脳裏を、未知の、けれど強烈な懐かしさを伴う感覚が駆け抜けた。
第一召喚時の記憶は、ない。
だというのに、彼の「指先」が、「足腰」が、そして「魂」が、最適な重心の位置を、勝利への最短距離を、あまりに鮮明に「知って」いた。
アレンの身体が、吸い込まれるように自然な「構え」を取る。
その瞬間、訓練場の空気が凍りついた。
隙が、一片も存在しない。
ただ立っているだけで、周囲の空間を支配し、相手の「死」を確定させるかのような完成された立ち姿。
騎士団長の顔色が、恐怖で瞬時に土気色へと変わった。
「行くぞッ!!」
騎士団長は自らを鼓舞するように吠え、大地を砕かんばかりの踏み込みで木刀を振り下ろした。
しかし、アレンの動きは最短。
回避することもなく、ただ手首を僅かに返しただけの動作で、その一撃を受け止めた。
──バキィィッ!!
乾いた破壊音がドーム内に反響した。
アレンの木刀に触れた瞬間、騎士団長の得物は、根元から粉々に粉砕され、虚空に舞った。
「……あれ? 俺……剣、こんなに使えたのか?」
アレンは自身の掌に残る、あまりに軽やかな感触を不思議そうに見つめた。
「アレン様は……本来、魔術だけでなく、剣も『極めている』のです」
リィナが、隣で誇らしげに、けれど確信を込めて囁いた。
その言葉を裏付けるように、騎士団長は折れた木刀を捨て、その場に力なく膝を突いた。
「……参りました。あなたは……魔術師としてだけではない。武の道においても、我らの『頂点』です」
この日を境に、アレンは自身の身体に刻み込まれた、失われたはずの「武」を再び磨き始めることになる。
最強の「魔」に、歴史を断ち切る「武」が加わる。
それは世界がまだ知らない、新たなる神話──ガルディア公国の守護者としての伝説が、真に幕を開けた瞬間であった。




