9-4
女神歴二一九六年、九月一日。夜。
首都ガルディアスの象徴たる白亜の宮殿での正式雇用発表、そして閣僚たちへの挨拶を終えたアレンたちは、宿泊先である『ヴァルシオン・ホテル』の最高級スイートルームへと戻っていた。
防魔結界が外界の喧騒と魔力ノイズを完全に遮断した室内には、空調の僅かな駆動音と、テラス越しに微かに届く水路のせせらぎだけが流れている。
身体をゆったりとした革張りのソファに預けたアレンは、漆黒の瞳を閉じて自身の内側に流れる魔力の波形を整えていた。
その傍らでは、銀髪を夜の灯りに輝かせるリィナが、淹れ立ての精霊茶をテーブルに置きながら、何度も自身の指先を弄っている。
彼女の細い指は、誰にも悟られぬほど僅かに震えていた。
これから行われる儀式が、この世界においてどれほど重い意味を持つか──婚姻と同格の社会的重みを持ち、解除はほぼ不可能であり、そして誓約期間中は子を成すことさえ制限される、魂の結合であることを、彼女は痛いほど理解していたからだ。
アレンにとって「二人目」となるパートナー。
リィナは大きく深呼吸をし、胸の奥で渦巻く言いようのない不安と、自分だけがアレンの唯一であった時間が終わる寂しさを、第一誓導者としての覚悟で押さえつけた。
「……アレン様。セリス様。今夜のうちに……《魔力循環誓約》をしてしまいましょう」
リィナの声は穏やかだったが、その瞳には凛とした光が宿っていた。
主の魔力を安定させ、これからの過酷な歩みを支えるためには、自分一人では足りない時が来る。それを誰よりも理解しているからこその提案だった。
戦闘衣姿を解き、薄手の室内着に着替えていたセリスが、その言葉に弾かれたように背筋を伸ばした。
金髪を解いた彼女の横顔には、公国の至宝と呼ばれた誇り高い魔術師の顔と、年相応の女性としての緊張が同居している。
「……承知いたしましたわ。アレン様、よろしいでしょうか」
「ああ。頼む、セリス」
アレンが短く応じ、右手を無造作に差し出す。
セリスは一歩踏み出し、アレンの大きな手へと、自らの震える指を重ねた。
誓約の儀式は、セリスが主導する形で行われた。
リィナは僅かに距離を置き、自身の内側でもアレンの魔力波形を感じ取りながら、その光景を静かに見守る。
セリスが魔力循環のための術式を展開すると、二人の手のひらの間から白銀の燐光が溢れ出した。
互いの魔力を署名として魂に刻み、一度完全に混ざり合わせることで、途切れることのない循環回路を形成していく。
その刹那。
セリスの青い瞳が、零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「……っ……ぁ……っ!?」
セリスの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
手首を通じて自分の魔力回路へ流れ込んできたのは、これまで彼女が「特級魔軌士」として触れてきたどんな常識も通用しない、圧倒的なまでの「質量」の暴力だった。
(……な、何ですの、この魔力は……!?)
底が見えない。
数千メートルの深海に沈められたような重圧。あるいは、果てしない宇宙の虚空を見上げているような、終わりのない絶望感に近い万能感。
さらに、その魔力の「質」そのものが、現代魔術の理論という矮小な枠組みを根底から否定していた。
属性という色付けを拒絶するほどに純粋で、生命の根源に直接訴えかけてくるような──この世界そのものの理を体現したような力。
セリスの膝ががたがたと震え、意識が遠のきそうになる。
彼女の思考は、アレンの魔力の深淵に呑み込まれ、理知的な判断を失いかけていた。
「特級、では、ありません……もっと、もっと深い……地の底……いいえ、世界の根源……っ」
戦慄し、凍りつく親友の姿を見て、リィナは切なさを抱きながらも、誇らしげに目を細めた。
理外の男、アレン・ヴァルグレイ。
その真価を、魂の深部で共有できる者がもう一人増えた。それは、自分だけが持っていた秘密を共有するような、奇妙な優越感をリィナに与えていた。
やがて、溢れていた光が収束し、二人の間に不可視の魔力回路が確立された。
魔力循環誓約は、静かに、しかし確実に成立したのである。
儀式を終えたセリスは、額に脂汗を浮かべたまま、震える手で自身のアーク・リンクを取り出した。
魔軌士局の国際システムへ、正式な誓導者登録を行うためだ。
端末の青白い画面には、彼女の現在のステータスが表示されている。
『所属:無所属』
八月末日を以て公国との個人契約を満了した彼女のデータが、今、書き換えられようとしていた。
セリスは一瞬だけ、その画面を愛おしむように見つめた後、決意を込めて魔力を流した。
ピコン、という乾いた通知音。
『所属:アレン・ヴァルグレイ No.11 誓導者』
「……これで、私は名実ともに、アレン様の誓導者ですわ」
セリスは乱れた髪を整えることもせず、胸に手を当て、凛とした気品を保ちながら、深く、深く頭を下げた。
「……改めて。よろしくお願いいたします、マイマスター・アレン様」
「ああ。頼りにしている、セリス」
アレンの淡々とした、けれど確かな信頼を宿した言葉に、セリスの頬が僅かに赤らむ。
続けて、リィナが見守る画面の中で、アレン自身のデータも更新された。
『雇用契約:ガルディア公国(九月一日付)』
「アレン様の雇用契約も、正式に反映されています。……これで、本当の意味で始まったんですね」
リィナが呟くと、セリスも力強く頷いた。
三人の新しい関係が、世界の法においても、そして魂の理においても、覆しようのない事実として刻み込まれた瞬間だった。
夜も更け、セリスが「失礼いたしますわ」と一礼して自身の部屋へ戻った後、スイートルームのリビングには、再び静寂が降りていた。
リィナは一人、ベッドの端に腰を下ろし、窓の外に広がる公都の灯りを眺めていた。
彼女はそっと自分の胸に手を当てる。
自らの内側を流れるアレンの魔力は、セリスという強力な回路が増えたことで、より力強く、そして穏やかに循環しているのが分かった。
かつての友が、自分と同じ立場として加わったことへの、消えない不安。
けれど、アレンという「理外の存在」を守り抜くためには、自分一人だけの手ではいつか零れ落ちてしまうことも、彼女は聡明さゆえに悟っていた。
(これからは、三人で……)
嫉妬が完全に消えたわけではない。
けれど、それを上回る「覚悟」が、リィナの心を満たしていく。
自分こそがアレンの最初の誓導者であり、彼を世界樹の下で最初に見つけ、その孤独を最初に救った存在であるという、揺るぎない自負。
「……アレン様のそばにいられるなら、私は……それでいいんです」
暗闇の中、リィナの淡い青色の瞳に静かな光が宿る。
一歩、また一歩と世界の深淵へと足を踏み出していくアレンを支えるため、彼女はまた一つ、誰にも譲らぬ誓いを自らの魂に深く刻み込んだ。




