9-2
女神歴二一九六年、八月二十一日。
西大陸の公都ガルディアスを包む朝の陽光は、窓辺に飾られたクリスタルに反射し、最高級『ヴァルシオン・ホテル』のスイートルームを虹色のプリズムで満たしていた。
身体をゆったりとしたソファに預け、黒髪を朝の風に遊ばせていたアレンが、不意に視線を窓外の白い塔へ向けた。
「……少し、ここの迷宮を見ておきたいんだ」
その一言に、隣で精霊茶を淹れていたリィナの心臓が、警鐘を鳴らすようにドキンと跳ねた。
彼女の脳裏には、アルヴェリアの『蒼風峡谷』や帝国の『帝国魔導要塞』で繰り広げられた、蹂躙という名の「散歩」の記憶が鮮明に蘇る。
(……また、あの深層へ? 今日から……?)
リィナは動揺を隠すように、銀髪の毛先を指で整えながら、極めて真面目なトーンで答えた。
「それなら、少しお買い物に行かないといけませんね。深層向けの保存食や魔力ポーション、予備の魔導具……物資の補充を急ぎましょう」
「いや、今日は散歩するだけだから。食料も準備も要らないよ」
「……信じられない……」
リィナは呆れたように、深いため息を吐き出した。
アレンにとっての「散歩」が、一般の魔軌士にとっての「遺書を書くレベルの死地」であることを、彼女は身をもって知っている。
だが、主の決意が固いことを悟ると、彼女は自身の愛杖であるショートロッドを袖に忍ばせ、準備を整えた。
首都ガルディアスの街並みは、白亜の建築物と、街の随所に張り巡らされた清らかな水路が美しく調和していた。
石畳を打つリィナのブーツの音が、水のせせらぎと共に心地よく響く。
歩調を合わせて歩きながら、アレンは念を押すように繰り返した。
「本当に散歩だけだよ。戦うつもりはない」
「……絶対に、信用できません」
リィナはジト目で主を見上げた。
これまで何度も「戦わない」と言いながら、結果として守護獣をワンパンで沈めてきた前科が彼にはある。
そのまま迷宮の入り口へ向かうのかと思いきや、アレンが足を止めたのは、大通りに面した一軒の煌びやかな宝飾店の前だった。
ショーウィンドウには、魔力灯の光を受けて眩い輝きを放つ宝石たちが並んでいる。
「あ、ここ。ちょっと入りたいんだが」
「えっ……じゅ、ジュエリー……?」
リィナの鼓動が、先ほどとは全く違う意味で加速した。
(ま、まさか……指輪……?)
淡い期待と、顔が燃え上がるような緊張感。リィナが頬を朱に染めて立ち尽くすのをよそに、アレンは迷いのない足取りで指輪コーナーへ直行した。
アレンは数多の指輪が並ぶガラスケースを真剣に覗き込み、眉を寄せて呟く。
「あー、サイズがわかんないな。困ったな……」
(……え? 私のサイズ、じゃないの……?)
胸に灯ったばかりの淡い希望が、ヒュウ、と冷たい風に吹かれたように萎んでいくのをリィナは感じた。
「サイズなら、あちらのコーナーの指輪は魔術式で自動調整されますよ」
リィナが少しだけ声を落とし、寂しさを隠して教えると、アレンはポンと手を打った。
「そんな便利なんだ。陛下のサイズなんて分からないもんな。……よし、それでいいや」
(……陛下? ガルディアの、エリシア公女王様……?)
リィナの胸が、ズキッと音を立てて痛んだ。
アレンは店員を呼び、自身の「理」に沿った具体的な注文を淡々とつけ始める。
「シンプルで、石が一つ。リングに埋まっているモデル。ライト系魔法が乗りやすい石を」
「なら……クリスタルが一番です」
リィナは自身の切なさを奥底へ押し殺し、第一誓導者として最善の助言を与えた。
アレンは同じ指輪を二つ購入すると、アーク・リンクで決済を行う。
その際、ふとリィナの沈んだ横顔に気づいたアレンは、少しだけ決まり悪そうに彼女の耳元で囁いた。
「……リィナのは、また今度、一緒に買いに来ような」
「……っ、はいっ!」
一瞬でリィナの表情に大輪の花が咲く。
彼女は自身の現金な性格に心の中で苦笑しながらも、主の隣を跳ねるような足取りで歩き出した。
目的地である迷宮『深古水環宮』。
水と古代機構が織りなすその空間は、天井から降り注ぐ淡い青の燐光と、至る所で音を立てる滝の飛沫によって、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
一階層は特に水辺が多く、迷宮特有の重苦しさは薄れ、代わりに涼やかな風が吹き抜けている。
「本当に散歩だよ。攻略じゃない」
アレンの言葉通り、二人は一階層の静かな水辺に腰を下ろした。
それは血生臭い迷宮攻略とは無縁の、まるで恋人同士のデートのような、穏やかで贅沢な時間。
「アレン様、その指輪……何に使うんですか?」
「ちょっと実験も兼ねてね。ごめん」
アレンは二つの指輪を膝の上に並べると、微かな呟きと共に魔術式を構築し始めた。
アレンの「理外の魔力操作」は、既存の魔術理論を平然と無視する。
属性の変換も、複雑な幾何学模様の陣も必要ない。ただ、魔力そのものを直接「指輪という物質」に添付し、新たな理を上書きしていく。
(……相変わらず、デタラメな魔力操作……)
リィナは呆れと感嘆を混ぜた眼差しで、その「光の奔流」を見守った。
「よし。リィナ、これを持って。魔力は流さないでくれ」
アレンがもう一方の指輪を手に取り、自身の無属性魔力を微かに流した。
その刹那。リィナの掌にある指輪が、呼応するように強烈な白銀の光を放ち輝いた。
「わっ……!」
「これだけ光れば、迷宮の奥でも嫌でも気づくね。実験終了だ」
片方に魔力を流せば、どれほど離れていても、もう片方が共鳴して光る。
「エリシア陛下が、これで俺たちに知らせを送る仕組みだ。迷宮内じゃアーク・リンクは使えないからな」
「なるほど……。それなら、安心ですね」
迷宮内での「外部通信遮断」という世界の法則を、アレンは指輪二つで軽々と解決してしまった。
二人はそのまま、一階層の守護者が部屋の奥で咆哮を上げている姿を、遠くから「見るだけ」でやり過ごし、静かに迷宮を後にした。
本当に一度も剣を抜かず、術式を放たない。
アレン・ヴァルグレイという「理外の男」が、リィナに贈った束の間の、けれど本物の贅沢な休日だった。




