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女神歴二一九六年、八月十一日。
鉄と魔導が支配する覇権国家ヴァルゼン帝国の空は、どこまでも高く、冷徹なまでの青さに塗りつぶされていた。
帝都イグナイトの重厚な魔導門を潜り、アレンとリィナの二人は、あの日皇帝ダリオスに突きつけた「宣戦布告」にも等しい最後通告の余波を背に、正式な出国手続きを完了させた。
巨大な魔導タービンが低く安定した唸りを上げ、西の大陸へと向かう航空機のハッチが閉じられる。
東大陸から西大陸へと至る空の旅は、十二時間という膨大な時間を要する長旅である。
高度数千メートルの窓外には、陽光を反射して白銀に輝く雲海がどこまでも広がり、地上の喧騒や国家間の緊迫した空気さえも、ここでは無意味なノイズに過ぎない。
身体をファーストクラスの贅沢なシートに預けたアレンは、閉じた瞳の裏で、自身の魔力回路を世界の理へと深く沈み込ませていた。
隣のシートでは、リィナが落ち着かない様子で何度も銀髪を整え、あるいは手元のアーク・リンクの画面を点けては消し、という動作を繰り返している。
その指先がわずかに震えているのを、アレンの「理外の視界」は彼女の魔力波形の揺らぎとして正確に捉えていた。
「……どうした、リィナ。体調でも悪いか?」
アレンが静かに声をかけると、リィナは「あ、いえ!」と弾かれたように顔を上げ、ぶんぶんと首を振って銀髪を揺らした。
「違うんです。……ただ、九月からセリス様と一緒に働けるんだと思ったら、なんだかワクワク……いえ、少しだけ緊張してしまって」
リィナの淡い青色の瞳には、期待と不安が複雑に混ざり合っている。
九月一日から始まる、ガルディア公国との正式雇用契約。
それはアレンが公国の「国家最強戦力」となる日であり、同時に、友であるセリス・ヴァレンティアがアレンの「第二誓導者」として自分たちの輪に加わる、新しい生活の幕開けでもあった。
(……セリス、か)
アレンはリィナの「普通の幸せ」を守るため、そしてこの世界の理を安定させるため、一つの大きな組織に属することを選択した。
リィナにとっては、かつての学院時代の友人と、最愛の主を共に支えるという未知の領域への一歩。
その期待の重さが、薄い機内の空気を少しだけ熱くしているように感じられた。
西大陸、ガルディア公国の首都ガルディアス。
白亜の石造りの建築物と、街の随所に張り巡らされた水路が美しい調和を見せるこの都市は、帝都の冷たさとは対照的な、どこか温かみのある活気に満ちていた。
空港に降り立った二人は、迷わず最高級の『ヴァルシオン・ホテル』へと向かった。
防魔結界が厳重に張り巡らされ、外界の監視を一切受け付けない魔軌士専用スイートルーム。
重厚なドアが閉まった瞬間、リィナは使い慣れたアーク・リンクを操作し、セリスへと連絡を入れた。
セリス・ヴァレンティアは、既に公女王エリシアの特別補佐官としての前任業務を、八月末日付で完了させるための引き継ぎを全て終えていた。
現在は宮殿勤務でありながら、契約開始を前に時間に余裕があるとのことで、連絡から一時間もしないうちに、ホテルの廊下に規則正しい足音が響いた。
コン、コン、と控えめながら芯の通ったノックの音。
「お久しぶりですわ、アレン様、リィナ様」
扉が開かれ、そこに立っていたのは、一分の隙もない軍服姿を纏った金髪の美女──セリス・ヴァレンティアだった。
彼女は凛とした所作で一礼し、室内へと足を踏み入れる。その澄んだ青い瞳には、再会の喜びと共に、アレンを「主」として迎える覚悟が静かに宿っていた。
「エリシア陛下より伝言を預かって参りました。正式な謁見の日、ならびに契約発表を、九月一日の朝に設定したいとのことですが……いかがでしょうか」
リィナは不安げにアレンの横顔を伺った。帝都でのあの「面倒事」を経験した直後だ。権力者との対峙を嫌うアレンが、拒絶するのではないかと考えたのだ。
だが、アレンの思考プロセスに迷いはなかった。
「……そうか。わかった。問題ない」
短く落ち着いた承諾。リィナは目に見えて安堵の息を漏らし、胸元を押さえた。
セリスはその様子を不思議そうに眺めていたが、居住まいを正すと、手元の資料を少し言い回しに迷うように見つめた。
「……えっと、それと。……今さらなお話なのですが、私との契約内容、特に『待遇』についてが、まだ詳細に決まっておりませんでしたわ」
「待遇? ……誓導者ってのは、普通どういう契約なんだ?」
アレンの素朴な問いに、リィナとセリスは顔を見合わせた。
エルディアにおける特級魔軌士の誓導者の給与は、マスターの国際序列(No.)によって厳格な「相場」が存在する。
「一般的には……No.1からNo.10の誓導者で年間五百億エル。No.11からNo.35の誓導者で三百億エル。No.36からNo.100の誓導者であれば、二百億エル……というのが相場です」
セリスが淀みなく補足する。
「特級魔軌士の誓導者であれば、最低でも年間二百億エルは保証されます。それがこの世界のルールですわ」
「……そんなに高いのか?」
アレンは本気で驚いたように眉を寄せた。
地球の価値観からすれば、個人の年収として「数百億」という数字は想像を絶する。
だが、リィナはそんな驚きをよそに、穏やかに微笑んだ。
「はい……。でも、私はアレン様のそばにいられれば、それで十分ですから。お金なんて二の次なんです」
「リィナ様……。では、リィナ様は現在、アレンさんからどれくらい受け取っているのですか?」
セリスの問いに、リィナは指を折って計算を始めた。
「えっと、まだ清算されていない迷宮も多いのですが……。今のところは、三百六十億エルくらい……だと思います」
「三百六十億……。なるほど、特級中位の相場よりは少し良い、という感じですね。妥当なところだと思いますわ」
セリスは納得したように頷いた。
だが、二人は知らない。
アレンがアルヴェリアの『蒼風峡谷』、ヴァルゼンの『帝国魔導要塞』の深層から持ち帰った、未換金の深層魔石の総額を。
その想定額は既に三兆三千六百五十一億エルという、小国の国家予算さえも超えかねない額に達しようとしている。
リィナが結んでいる「報酬の五%」という契約をそのまま適用すれば、彼女の取り分は既に一千六百八十二億エルを優に超えているのだ。
アレンは腕を組み、窓外の夜景を眺めながら数秒の沈黙を置いた。
そして、誰に問うでもなく、静かに、けれど断定的な口調で告げた。
「……セリス。お前の年収は、ガルディア公国との契約時と同じ──『五千億エル』にする」
──キィィィィィィィン……。
室内の空気が、凍りついたような静寂に包まれた。
「……っ……なっ、五、五千億!?」
セリスが、椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。
それは特級十位までの「マスター本人」に支払われる最高額の年収と同等だ。
「それに加えて、迷宮で得た魔石報酬の五%を渡す。……リィナ、お前も同じだ。これからは、固定で五千億エルに、報酬の五%。これで文句はないな?」
「えっ……アレン様……私なんかに、そんな……っ」
リィナは、主が与えてくれる信頼の重さに、今にも泣き出しそうな表情で立ち尽くした。
セリスは頬を上気させ、震える指先で自身の胸元を押さえた。
彼女は、アレンの第二誓導者となる責任の重さを魂に刻み、リィナは「対等のパートナー」として主に報いる誇りを胸に刻み直した。
九月一日の謁見を前に、三人の絆は「信頼」という名の、何物にも代えがたい「誓約」によって新たな段階へと足を踏み出したのである。




