8-12
覇権国家ヴァルゼン帝国の深奥、ヴァルゼン皇宮の控室。
鉄の錆と乾いた魔導オイルの臭いが混じり合う無機質な空間で、アレン・ヴァルグレイたちは三時間を超える「待機」を強いられていた。
それは単なる事務的な遅延ではない。訪れた者を精神的に疲弊させ、帝国の絶対的な優位性を無言のうちに叩き込む、老練な外交術の一環だった。
「……もう帰るぞ、リィナ。時間の無駄だ」
アレンが席を立とうとするのは、これで三度目だった。
長身が立ち上がるたび、隣に座るリィナが泣きそうな顔でその袖に縋り付き、背後では支局長ガウスが自らの胃を抑えてガタガタと震える。
侍従長らしき人物が淡々と儀礼の説明を続けているが、アレンはそれを完全にノイズとして切り捨て、欠伸を噛み殺しながら窓外の鉄の街並みを眺めていた。
ようやく重厚な鋼鉄の扉が開かれたのは、太陽が傾き始めた頃だった。
踏み込んだ「謁見の間」には、数百名の貴族と黒い外套を纏った近衛兵が居並び、物理的な質量を伴うほどの沈黙と重圧をアレンたちに浴びせていた。
アレンは表情を変えず、中央の深紅の絨毯を悠然とした足取りで歩む。
その横で、リィナは緊張に肩を強張らせながらも、主の隣を歩む第一誓導者としての矜持を保ち、毅然と前を見据えていた。
最後尾のガウスは、もはや場違いな「理外」の空気に当てられ、壊れた人形のように膝を震わせている。
玉座の左右には、帝国の「全戦力」とも呼ぶべき特級魔軌士たちが勢揃いしていた。
序列第一位、ヴァルツ・レグナス。三名の誓導者を従え、完成された威厳を放ちながら不敵な視線を投げている。
序列第三位、アドラ・ヴェルンハイト。退屈そうに、けれど獲物を定める猛禽のような目でアレンを観察する天才。
序列第十位、ガルド・エルネスト。かつて自身が膝を折った領域を抜いたアレンに対し、剥き出しの屈辱と警戒を隠そうともしない。
序列第十二位、グラウス・ラインハルト。家族である誓導者を背後に置き、鉄壁の構えでアレンの魔力圧を測っている。
大陸を支配する覇権国家の心臓部が、たった一人の男を囲い込んでいた。
玉座から二十メートルの距離。
リィナとガウスは弾かれたようにその場に膝を突き、深く頭を垂れた。
しかし、アレンだけは棒立ちのまま、ポケットに手を突っ込んで皇帝ダリオスを真っ向から見据えて動かなかった。
「無礼者ッ! 頭が高い! 控えろッ!」
宰相が身振り手振りで促し、近衛団長の怒号が天上に反響する。
だが、アレンはそれらを完全に無視した。
その傲岸不遜な態度に対し、帝国の「象徴」たる序列第一位ヴァルツが即座に反応した。
「──《閃光破》」
無詠唱に近い速度で放たれた、対象を物理的に跪かせるための制圧魔術。
高密度の光がアレンを呑み込もうと殺到した刹那、アレンは指先一つ動かさず、ただその攻撃の「核」を見据えた。
直感 → 分析 → 行動。
──パチン。
乾いた音が響くと同時に、帝国の誇る最高峰の魔術は、まるで幻影であったかのようにアレンの手前で霧散した。
魔術を構成する理そのものを内側から解体する《魔術消去》。
「……っ!? なんだ今の……魔術が消えただと?」
「馬鹿な……ヴァルツ閣下の術式を、干渉すらさせずに……」
どよめきが走る謁見の間を、皇帝ダリオスの一言が制した。
「……面を上げよ」
「この者が特級No.11、アレン・ヴァルグレイです」
ガウスが震える声で紹介し、続けてリィナが、震える拳を握りしめて凛とした声を響かせる。
「マイマスターの第一誓導者。ガルディア公国、誓環学院中等部、第二六五代首席。リィナ・フェルウェンと申します」
「首席だと……!?」
帝国側の魔軌士たちが息を呑んだ。
国家の至宝たる才女を従え、序列一位の術式を指先一つで無に帰す男。
皇帝ダリオスは、鷹のような鋭い眼光でアレンを見下ろした。
「帝国魔導要塞、三十九階層までの攻略、見事である。その武、我に仕え、帝国の楯となれ。名誉も金も、望むがままに与えよう」
アレンは視線を逸らさず、短く、そして冷淡に切り捨てた。
「……興味がない」
謁見の間が、一瞬にして氷点下の静寂に包まれた。
「……何故、跪くことさえせぬ?」
「俺はこの国の民でもなければ、あんたに跪く理由もない。俺が守るのは、俺の隣にいる奴らだけだ」
「ヴァルツ!!」
皇帝の咆哮と共に、序列一位ヴァルツと三名の誓導者が一斉に魔力を展開した。
「死にたいのか。……その気なら、そこの連中まとめてかかってこい。手加減はできんぞ」
アレンの言葉が落ちた瞬間、背後から音もなく五名の近衛兵が殺到した。
だが、アレンは振り返りさえしなかった。
「──《光束魔術》」
アレンの背後から白銀の光線が五条、乱舞した。
それは近衛兵たちが展開した多層防御魔法を、紙細工のように容易く穿ち、正確に彼らの「右太腿」を撃ち抜いた。
凄まじい衝撃と共に、五人の精鋭が床に崩れ落ちる。
「……手加減はできないと言っただろ。聞こえなかったのか?」
アレンの漆黒の瞳に、冷徹な死の光が宿る。
「次は、殺す」
誰も、動けなかった。
序列第三位のアドラが、戦慄と共にその光景を分析し、確信を得る。
(先ほどの魔術消去……あれは、既存の理論の延長にはない。こいつは、本当に人間なのか……?)
「……じゃあ、これで話は終わりだな。帰るぞ、リィナ」
アレンが背を向けると、ダリオスが焦燥に駆られた声を上げた。
「待て……! このまま帰れば犯罪者扱いとなる! 帝国の追手からは逃れられんぞ!」
アレンは足を止め、肩越しに皇帝を振り返った。
その表情には、同情に似た嘲笑さえ浮かんでいる。
「あんた、バカか。先に仕掛けてきたのはそっちだ。これは正当防衛だろ」
アレンは一歩、ダリオスに向かって踏み出す。
「それと……勘違いしてないか? 犯罪者扱いに追手だと? ……そんなことになったら ── この国が、地図からなくなるだけだと思うが」
宰相の顔から血の気が完全に失せた。
その言葉は、単なる脅しではない。目の前の男には、それを成し遂げるだけの「底」が見えないのだ。
「リィナ、行くぞ」
「はい、アレン様。……あ、支局長。これ、陛下への贈り物です」
リィナは混乱し立ち尽くすガウスの手に、一際巨大で、禍々しくも美しい青の魔力結晶を押し付けた。
『帝国魔導要塞』四十階層ボス魔石。
それは、世界最強を自負する帝国が二千年の歴史をかけても届かなかった「理外の力」の証明。
静まり返った謁見の間を、アレンたちは悠然と去っていく。
玉座のダリオスは、崩れ落ちた近衛兵と、残された魔石を交互に見つめ、己の震える指先を強く握りしめていた。
(この男は……制御不能だ。決して、敵に回してはならぬ……!)
世界最強国家の威信は、たった一人の男の「散歩」のついでに、木っ端微塵に砕かれていた。




