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女神歴二一九六年、七月十一日。
アルヴェリア王国の王宮を包む空気は、外の活気ある王都アルヴェンとは対照的な、冷徹な静謐に満ちていた。
案内されたのは、豪華絢爛な謁見の間ではない。白石の壁に精霊を模した繊細な彫刻が施された、格式高くも秘匿感のある「特別応接間」だった。
これは単なる歓迎ではなく、アルヴェリアという国家が、正体不明の「特級 No.11」に対し、最大限の警戒と敬意を以て接触を図っているという事実の表れでもあった。
アレンは案内されるがまま、重厚な革張りの椅子へと深く腰を下ろした。
高級な椅子を軋ませるが、彼は気にする素振りも見せない。
隣には、銀髪をなびかせたリィナが、そして背後には、緊張で額に脂汗を滲ませた支局長レイフォルトが控えている。
開け放たれた窓から差し込む陽光が、室内に舞う微細な光の粒子──世界樹の加護を受けたこの国特有の魔力──を浮き彫りにしていた。
やがて、廊下の奥から整然とした軍靴の響きが近づいてきた。
扉が左右に開かれ、威厳ある一行が姿を現す。
先導する宰相。その後ろには、この国の最強戦力──特級魔軌士 No.9、ルシェル・ヴァンデルト。
エルフ特有の長い耳と、二四〇年の時を経てなお瑞々しい美しさを保つその瞳が、アレンという「異質」を射抜くように観察している。その背後には二人の誓導者、アリアとフィオレンが静かに従う。
そして最後に入室したのは、アルヴェリア王国の王、レオニス・アルヴェリアだった。
「陛下のおなりである」
宰相の硬い声が室内に響く。
その瞬間、リィナと支局長は弾かれたようにその場に跪き、深く頭を垂れた。
リィナは第一誓導者としての完璧な所作を崩さず、支局長は事務的な動作の中に隠しきれない畏怖を滲ませている。
だが、ただ一人。
アレンだけは、座ったまま静かにレオニスを見据えていた。
彼はゆっくりと立ち上がると、形式的な一礼だけを捧げ、レオニスが言葉を発する前に再び平然と椅子に座り直した。
「ぶ、無礼者ッ! 頭が高い! 陛下の御前であるぞ、控えよ!!」
宰相の顔が瞬時に怒りで赤らみ、鋭い叱咤が室内の静寂を切り裂いた。
しかし、レオニスは穏やかな笑みを崩さず、そっと手を挙げて宰相を制した。
「よい、宰相。……面を上げてくれ。アレン殿。君は、どの国家にも属さぬ独立した魔軌士だ。我が国の礼法に縛るつもりはないよ」
レオニスの声音には、アレンの「理外の存在感」を瞬時に理解し、それを受け入れる懐の深さがあった。
リィナたちが顔を上げると、アレンは無言のまま、短く自己紹介を口にした。
「……アレンと言います」
その素っ気ない、けれど確固たる意思を感じさせる言葉に続き、リィナが一歩前へ踏み出した。
彼女は淡い青色の瞳に強い光を宿し、凛とした声を響かせる。
「お初にお目にかかります、レオニス陛下。マイマスター・アレン・ヴァルグレイの第一誓導者──ガルディア公国、誓環学院中等部、第二六五代首席。リィナ・フェルウェンと申します」
「おお……っ!?」
宰相が思わず声を漏らし、特級 No.9 のルシェルもまた微かに目を見開いた。
誓環学院の首席。それは、数万人の天才の中から選ばれた「国家の至宝」を意味する肩書きである。
そのような才女が、昨日まで無名だった男の隣に控えているという事実に、室内の魔力波形が驚愕によって一気に揺らいだ。
「本日は拝謁の誉れを賜り、感謝いたします。……こちらを、マスターからの贈り物として」
リィナが鞄から取り出し、テーブルの上に置いたのは、一際巨大な、そして不気味なほどに澄み渡った青色の魔力結晶だった。
「…………っ、これは」
室内の空気が、凍りついた。
そこに鎮座していたのは、アルヴェリアが誇る迷宮『蒼風峡谷』、その四十階層守護者の魔石だった。
宰相は呼吸を忘れ、ルシェルはその純度の高い魔力の揺らぎ──現代の魔導理論では説明のつかない高密度のエネルギー──に戦慄した。
ルシェルの背後に控える二人の誓導者、アリアとフィオレンは、魔石の圧力もさることながら、それを事もなげに差し出したリィナの、異常なほど安定した魔力循環に言葉を失っている。
「大きい……。これほどまでのものを、私への贈り物だと言うのか?」
レオニスが震える指先で魔石の表面をなぞる。
四十階層。人類がいまだ到達できていない「未踏域」の証を、アレンはまるで散歩の途中に拾った小石のように差し出したのだ。
「はい。間違いございません。私たちが先日、その手で討伐したものです」
リィナが誇らしげに微笑む傍らで、アレンはただ淡々とその光景を眺めていた。
「……素晴らしいな。何か、返礼をせねばなるまい。叙爵か、あるいは金か? 君が望むものを言ってみなさい」
レオニスは興奮を抑えるように告げたが、リィナの返答は迷いの一片もなかった。
「何も欲しいものはございません。マスターアレンも、私も」
「それでは困るな……。のう、ルシェル。いっそ我が国で働かんか? 特級上位として、最高の待遇を約束しよう」
ルシェルがアレンの「底の見えない魔力」を値踏みするように目を細め、レオニスの言葉を継いだ。
だが、リィナは主の意志を代弁するように、優雅に、けれど断固として首を振った。
「残念ながら、叶いません。私たちは今はまだ自由な身でいたいのです。……迷宮を歩くのが、マスターの性に合っていますので」
レオニスは数秒の間、アレンの黒い瞳を見つめていたが、やがて深く、納得したように頷いた。
「……そうか。残念だが、無理強いはせぬ。『縛らぬこともまた王の務め』よな」
レオニスは満足げに巨大な魔石を抱え、穏やかな、けれど確かな絆を感じさせる笑みを浮かべて退室していった。
一行が去った後、支局長レイフォルトは「……帰るか。一生分の冷や汗をかいたぞ」と掠れた声で呟いた。
王宮を出るアレンの大きな背中を、ルシェルは遠くから見つめ続けていた。
(あのアレンという男……ただ者ではない。魔力の底が……最後まで見えなかった……)
夕暮れに染まるアルヴェンの街路。
理外の男と銀髪の女は、長引く動乱の気配など意に介さず、ただ静かに、次の散歩の目的地へと歩みを進めていた。




