2-1
世界樹の根元。
先ほどまでの神話的な黄金の輝きは静かに収まり、辺りは耳を劈くような静寂に包まれていた。
その中心で、一九二センチメートルの巨躯を持つアレンは、魂を抜かれた抜け殻のように冷たい地面に横たわっていた。
彼の肌には、世界樹との共鳴によって刻まれた蔦状の紋様が、今もなお微かな熱を帯びて青白く明滅している。
「誰か……! 誰か来てください、お願いします……っ!」
銀髪を振り乱し、リィナは震える足で立ち上がった。
つい先刻、自らの半身とも言えるルミナを失い、さらに目の前の異邦人の覚醒という理外の事象を目の当たりにした彼女の心は、すでに限界を超えていた。
しかし、彼女を突き動かしたのは、自分にすべてを託して消えたルミナへの誓いと、この孤独な「命」を救いたいという一途な思いだった。
彼女の悲鳴に近い叫びに応えるように、通りかかった住民が駆け寄る。
リィナは涙に濡れた顔で事情を説明し、すぐに無人タクシーを呼び出した。
滑り込んできたのは、魔導工学の粋を集めた自律走行車両。
内燃機関の爆音も排気ガスの臭いもなく、ただ微かな電気的駆動音だけを響かせるその無機質な車両に、リィナは男性の手を借りて重いアレンの身体を運び入れた。
「本当に助かりました。ありがとうございます……っ」
深々と頭を下げると、リィナはアレンを乗せた車と共に、世界樹の町にある総合病院へと急いだ。
車窓から見える風景は、アレンが知る故国のものとは決定的に異なっていたが、リィナの瞳にはその高度な文明の光すら映っていなかった。
「根元で倒れていて……ずっと、意識が戻らないんです」
病院の受付から、真っ白な廊下を経て病室へ。
運び込まれたアレンを診察した老医師は、不思議そうに何度も首を傾げた。
その髪の間からは、ピンと尖った長い耳――エルフの象徴が、思考と共に微かに揺れている。
「……ふむ。症状そのものは、酷い『魔力酔い』に酷似していますな」
医師の指先が、アレンの首筋に浮かぶ蔦状の紋様に触れる。
その瞬間、医師の顔がわずかに強張った。
彼の眼に映るのは、人間という種の限界を遥かに超越した、異常なほど活性化している魔力回路の輝き。
それはまるで、幼児が初めて濃密な魔力に触れた際に出す知恵熱のようなものだが、そのエネルギーの絶対量は、一国の魔術師団を丸ごと飲み込みかねないほどの質量を有していた。
しかし、老医師はこの異質な事態を深追いすべきではないと、長年の経験則で直感した。
「とりあえず、安静にして様子を見ましょう。生命維持に必要な措置は施します」
それから、三日が過ぎた。
リィナは、アレンのそばを離れようとはしなかった。
病室には、規則的な魔導モニターの電子音だけが響いている。
リィナは何度も氷水の入った桶を替え、アレンの額に冷たいタオルを置いた。
彼の岩のように大きな、けれど今は無防備な手を握り締め、消え入りそうな声で語りかけ続ける。
「……アレンさん。あなたは、一人じゃありませんから」
彼女の脳裏には、ルミナが最期に遺した言葉が、呪いのように、あるいは祝福のように響き続けていた。
『アレン様をお願いします。あなたは波長一致者です』。
この男が背負わされた、世界を救うという過酷な使命。
それを一人で背負わせるには、彼はあまりに孤独で、そして何より「人」としての温もりを求めているように、彼女には感じられた。
一方、アレンは意識の深淵を漂っていた。
そこは一切の光も音もない、完全な暗闇。
しかし、胸の奥底には、ルミナが命を賭して灯した「微かな温もり」が、絶えることなく脈動していた。
声は届かず、姿も見えない。
だが、陽だまりのようなルミナの気配が、彼の荒れ狂う魔力回路の「核」となり、その命を強固に繋ぎ止めていることを魂が理解していた。
三日目の朝。
清潔なリネンの香りが漂う病室の窓から、雲を抜けた柔らかな陽光が差し込んだ。
ピクリ、とアレンの指先が動く。
重い鉛のような瞼が微かに震え、ゆっくりと、光を拒むように持ち上がった。
「……っ、アレンさん……!」
椅子に座ったまま微睡んでいたリィナが、弾かれたように身を乗り出す。
アレンの混濁した視界に最初に映ったのは、逆光に照らされて白銀に輝く髪と、涙をいっぱいに溜めた淡い青色の瞳だった。
「……リィナ……か……」
渇いた喉から漏れ出たのは、自分自身のものとは思えないほど掠れた、低い声だった。
アレンが身体を起こそうとした時、騒ぎを聞きつけた医師と看護師が駆け込んでくる。
「おや、目が覚めましたか。気分はどうですかな?」
医師の言葉に答えようとしたアレンは、不意に言葉を失い、動きを止めた。
自分を覗き込む医師、そして背後の看護師。
その二人の横顔には、自分の世界の常識には存在し得ない「長い耳」が、明確な主張を持って突き出していた。
(……耳が……長い……?)
混乱が脳内を駆け巡り、意識が急激に現実へと引き戻される。
ここは故国ではない。自分がいた、あの無機質な喧騒の世界ではないのだ。
アレンは持ち前の冷静さを必死に手繰り寄せ、強張る表情を押し殺した。
ここが異世界であることは頭では理解していたが、目の前の「神話の住人」たちの存在は、自分がもはや帰れない場所へ来てしまったことを、残酷なまでに突きつけていた。
「……ああ。少し、頭が重いだけだ。大丈夫だ」
アレンのわずかな動揺に、リィナは気づいた。
だが、彼女はそれを指摘せず、ただ安堵に満ちた、花が綻ぶような微笑みを浮かべて彼の手を強く握った。
三日間、一刻も休まずに看病し、自分という存在を繋ぎ止めてくれたこの女性。
彼女の疲弊した顔と、それでもなお自分を信じ抜こうとする清廉な瞳を見て、アレンの胸の奥に、かつてないほどの熱い感情が込み上げた。
「……リィナ。ありがとう」
「はい……! 本当に、本当によかったです……!」
病院の静かな、朝日が差し込む部屋で。
二人の絆は、言葉や理屈を越えた場所で、深く静かに結ばれた。
それは、エルディアという世界の理を穿つ、理外の物語の確かな第一歩だった。




