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覇権国家ヴァルゼン帝国の首都、帝都イグナイト。その夜は、軍事国家特有の無機質な秩序に塗りつぶされていた。
最高級『ヴァルシオン・ホテル』の最上階スイートルーム。防魔結界に守られた静寂の中で、アレン・ヴァルグレイは独り、窓外に広がる鉄の街並みを見下ろしていた。
アレンの長身が、冷たい月光に照らされて細長い影を床に落としている。
その背中は、特級魔軌士 No.11という栄誉を背負っているとは思えないほど、深く、重い沈黙に沈んでいた。
手元でアーク・リンクが、主の心拍に呼応するかのように寂しく明滅している。
アレンは、世界初となる《空間転移》を完成させたその裏側で、ある「冷徹な真実」という名の壁に突き当たっていた。
(……転移ができるなら、元の世界への道も繋がると思ったんだがな)
既存の魔術体系を無視し、座標を折り畳む理論を構築した彼は、同時にこの世界の「理」が、地球という故国を物理的にも魔術的にも「外側」として完全に切り離していることを看破してしまった。
どれほど魔力を練り上げ、空間の層を剥ぎ取ったとしても、その先にあるのは虚無の深淵だけ。
《送還魔術》の構築は「不可能」──それは、理の守護者であるアレンが、誰よりも正確に導き出してしまった残酷な計算結果だった。
何より彼を打ちのめしていたのは、リィナと魔力循環誓約を結び、この世界で彼女を守ると誓いながら、未だに心の中で「帰郷」を夢見ていた自分自身の未練だった。
リィナの献身に救われ、彼女の「普通の幸せ」を守ると決めたはずなのに。
その誓いの裏側で、見知らぬ空を見上げては、もう戻れないはずの故国の喧騒を思い出す。その矛盾が、耐え難いほどの自己嫌悪となって彼の魂を摩耗させていた。
翌日。リィナの提案で、二人は帝都の街へと繰り出した。
イグナイトは世界最強の軍事国家らしく、魔導工学の粋を集めた高層建築が威圧的に立ち並び、石畳の道には一分の狂いもなく魔石街灯が配置されている。
頭上の魔導レールを急行列車が風を切って駆け抜け、広場では軍事パレードのための兵士たちが整然と行進していた。
リィナは精一杯、アレンの心を現実へと繋ぎ止めようと努めていた。
露店で買った、宝石のように色鮮やかに光る「魔術菓子」を差し出し、中央広場の巨大な魔導噴水を指差して、いつもの穏やかな笑みを向ける。
「アレン様、見てください! あの噴水、魔力の色で形が刻々と変わるんですよ。面白いですね!」
「……ああ。そうだな」
アレンの返答は短く、その黒い瞳は、噴水の光を捉えながらも、どこか遠い異空を眺めているように泳いでいた。
リィナが不注意で手から落としたお菓子が、石畳の上でパチンと音を立てて砕ける。
だが、魔力の機微に敏感なはずのアレンは、その音にさえ気づかず、ただ虚ろな視線を彷徨わせていた。
リィナの淡い青色の瞳に、言いようのない不安と哀しみが去来する。
彼女は「思考読解」の固有能力を持っている。だが、アレンの誓導者となってからは、彼への敬意から、その心の深層をあえて「読まない」ように律してきた。
しかし、今の彼から漏れ出す「不在感」は、魔術的な干渉を待たずとも、彼女の繊細な感受性を痛いほどに刺していた。
(私……何か、アレン様に嫌われるようなことを、してしまったのかな……)
リィナの胸が、鋭いトゲで刺されたようにチクリと痛んだ。
その夜、ホテルのスイートルームには、外界の喧騒を遮断する結界の重苦しい静寂だけが満ちていた。
すれ違いの限界を感じたリィナが、震える声を絞り出した。
「アレン様……。……最近、何か悩んでいませんか? 私に、できることは……ありませんか?」
アレンは答えに詰まった。
彼女に嘘をつきたくはない。だが、真実を語れば、自分の未練が彼女の存在を否定しているように聞こえるのではないか。
長い沈黙の末、アレンは拳を強く握りしめ、魂を削り出すように真実を告白した。
「……《空間転移》が完成した時、考えてしまったんだ。……もしかしたら、俺を元の世界へ帰す術式も、作れるんじゃないかって」
アレンの声は掠れ、自己嫌悪の色に塗りつぶされていた。
「でも、どう計算しても無理だった。……リィナ、お前と誓約して、この世界で生きると決めたはずなのに。心のどこかで未だに帰ることを考えていた自分が……本当に、嫌になったんだ」
アレンの独白が、広い部屋に虚しく反響した。
リィナは驚きに目を見開いたが、その瞳に「拒絶」の色は一片もなかった。
むしろ、天涯孤独の身となり、居場所を失った絶望を知る彼女だからこそ、彼が抱えてきた孤独の深さを理解し、胸を締め付けられた。
リィナは静かに歩み寄ると、アレンの強張った大きな手に、自らの小さな手をそっと重ねた。
「アレン様。そんなの……当たり前です」
「……リィナ?」
「アレン様は、その世界でずっと生きてきたんです。家族がいて、友達がいて、思い出があって……。帰りたくなるのは、少しも悪いことじゃありません」
彼女の言葉は、冬の朝に差し込む陽光のように、アレンの心を縛っていた呪縛を柔らかく溶かしていった。
「私のことは、気にしないでください。たとえアレン様がどこを向いていても、私は……あなたの味方です。ずっと、あなたの隣で、支え続けると決めたんですから」
「…………っ」
アレンは奥歯を噛み締め、熱く込み上げてくる感情を必死に抑え込んだ。
理の守護者として、これほどまでに無条件に肯定されたのは、第一召喚の記憶を失って以来、初めてのことだった。
「……ああ。……そうだな。俺は、この世界で生きるよ。最後まで。リィナ……お前と一緒にだ」
「はい。ずっと、おそばにいます」
二人の距離が、魔力循環誓約という形式上の絆を越えて、本当の意味で重なり合った瞬間だった。
翌日。再び訪れたイグナイトの街は、昨日とは全く違った色彩を帯びて見えた。
アレンの表情には自然な笑みが戻り、隣を歩くリィナは、嬉しそうに彼の腕に身を寄せた。
魔術菓子を半分こして笑い合い、噴水の前ではリィナの強い希望で、アーク・リンクのカメラを起動して並んでシャッターを切った。
アレンが街角の露店で見つけた、リィナの銀髪によく映える「白銀の髪飾り」を贈ると、彼女は顔を真っ赤にしながら、一生の宝物のようにそれを大切に抱きしめた。
夕暮れ時。
温かな光を放つ魔石街灯の下、寄り添って歩く二人の長い影が、石畳の上に美しく伸びていた。
アレンの心は、今、完全にこの世界──そして、その手を握る女性へと向いていた。
守るべき誓導者の手を取り、理外の男は新たな覚悟と共に、動乱の予感漂う未来へと力強く足を踏み出す。




