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女神歴二一九六年、四月一日。
その日の朝、世界中の人々の掌にあるアーク・リンクが一斉に震動し、一つの「速報」を告げた。
魔軌士局本局から放たれた国際序列の更新データ。そこには、数千年の歴史を積み上げてきたエルディアの軍事バランスを根底から揺るがす、一人の男の名が刻まれていた。
『特級魔軌士 No.11:アレン・ヴァルグレイ』
世界にわずか百名、一国を滅ぼしうると定義される「特級」の壁。その最上位、世界最強の十人に肉薄する第十一位に、昨日まで無名であった新人が躍り出たのだ。
経歴不明、所属国なし、未踏域のボス魔石を次々と換金した「理外の男」。その名は瞬く間に各国の軍事・情報機関の最重要警戒リストの筆頭へと躍り出た。
中央大陸南部、世界樹の加護を受けるアルヴェリア王国王宮。
陽光が差し込む美しい円卓の会議室には、朝の清々しい空気とは裏腹に、苦渋と困惑の沈黙が満ちていた。
国王レオニス・アルヴェリアは、手元のアーク・リンクに映し出された漆黒の文字を、穏やかながらも鋭い眼差しで見つめていた。
「……アレン。我が国の『蒼風峡谷』を蹂躙したあの男が、一気にNo.11ですか」
魔導院長が、胃を抑えるような仕草で重々しく呟いた。
隣に立つ精霊騎士団長も、硬い軍靴の音を響かせて一歩前へ踏み出す。
「経歴は依然として真っ白。ですが、あの蒼風峡谷を『散歩』したという報告書が真実であれば、この順位はむしろ低すぎるほどだ。……陛下、どこの国にも属していない特級上位の存在は、国家戦略資源の流出に等しい。他国に渡る前に、我が国が確保すべきです」
レオニスは静かに視線を上げ、窓の外にそびえる世界樹の枝葉を見上げた。
彼はアレンという男に対し、脅威よりも「未来への可能性」を感じていたが、王としての責務がそれを個人の感情で留めることを許さない。
「直接の接触は、かえって反発を招くでしょう。……まずはアルヴェン支局長を通し、合法的な範囲で情報を探らせなさい。彼を縛るのではなく、我が国との『縁』を感じさせるのが先決です」
レオニスの理知的な命令に、重鎮たちが一斉に首を垂れた。
同じ頃、東大陸。軍事大国ヴァルゼン帝国の皇宮『円卓の間』。
こちらを支配していたのは、冷徹なまでの殺気と、帝国の威信を傷つけられたことへの剥き出しの屈辱だった。
「……報告しろ。No.11の動向を」
皇帝ダリオス・ヴァルゼンの重低音が、厚い石壁に反響する。
情報局長が直立不動の姿勢で、冷や汗を流しながら応じた。
「はっ。対象はNo.10ガルド様が撤退を余儀なくされた『帝国魔導要塞』二十八階層を突破。その後も再び迷宮へ潜っており……観測ログによれば、もはや攻略ではなく、ただの歩行に近い速度で階層を落としているとのことです」
「笑えぬ冗談だな。帝国の迷宮戦略そのものが、たった一人の余所者によって否定されているというわけか」
ダリオスは報告書を一瞥し、それを無造作に放り捨てた。
彼の黒い瞳には、自国の戦力バランスを乱す不確定要素への強い警戒が宿っている。
「接触しろ。だが、決して敵に回すな。……味方に引き込めるなら帝国の全権を与えても構わん。それが不可能ならば、その動向を完全に監視下に置け。……ヴァルゼンの『影』を動かせ」
皇帝の絶対的な命令が下り、帝国の巨大な歯車が静かに回り始めた。
二大国は、共通の「決定的な誤解」を抱いていた。
アレンが既にガルディア公国と、九月からの一年間で三兆エルという破格の雇用契約を結んでいることを、彼らはまだ露ほども知らない。
「早い者勝ちで引き抜ける」という甘い認識が、大陸全土を巻き込む熾烈な争奪戦の火種になろうとしていた。
当のアレンは、そんな世界の狂騒など知る由もなかった。
『帝国魔導要塞』攻略後の帝都イグナイト、最高級『ヴァルシオン・ホテル』のスイートルーム。
窓外に広がる無機質な鉄の街並みを眺めながら、彼は深いソファに身を沈めていた。
「アレン様、次のお茶は何になさいますか? アルヴェリア産の精霊茶が手に入りましたが」
リィナが銀髪を揺らし、柔らかな笑みを浮かべて尋ねる。
アレンはリィナの献身的な気配に安堵を感じながら、短く答えた。
「……ああ。お前の勧めるやつでいい」
アレンにとって「No.11」という番号は、迷宮の床に落ちた石ころよりも価値のない、単なる付随情報に過ぎなかった。
彼の関心は、九月のガルディアでの契約開始まで、いかにリィナと平穏な時間を過ごすか。そして、この手に残る「理」をどう扱うか、ただそれだけに注がれていた。
その背後で、二大国の影が確実に忍び寄っていることも知らずに。
一人の男の「番号」が、世界の均衡を、静かに、そして激しく狂わせ始めていた。




