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女神歴二一九六年、三月。帝都イグナイトの朝は、軍事国家らしい厳格な静寂と、冷徹な魔導回路の駆動音と共に明けた。
アレンの指示による二日間の休息。
その間、二人は《空間転移》を用いて密かにアルヴェリア王国へと戻り、これまでの迷宮探索で得た魔石の一部を換金した。
実は、蒼風峡谷を全攻略後、約十日おきに一階層ずつ魔石の換金を行っている。
束の間の休息と帝都での「散歩」を経て、二人の絆はこれまで以上に静かに、けれど深く、魂の根底で重なり合っていた。
三月十三日の朝。アレンとリィナは、宿泊先のヴァルシオン・ホテルを後にした。
目的は、覇権国家ヴァルゼン帝国の象徴──迷宮『帝国魔導要塞』の完全攻略である。
鉄とコンクリートが支配する帝都の街並みを抜け、二人は巨大な「鉄の塔」へと辿り着いた。
高くそびえ立つその巨塔は、古代の魔導技術と迷宮の理が融合した、文字通りの難攻不落。重厚な魔導障壁を潜り抜け、一階層の冷たい石床を踏みしめた瞬間、アレンは隣に立つリィナへと手を差し伸べた。
「ここからなら跳べる。リィナ、掴まってろ」
「はい、アレン様。……準備はできています」
リィナがその大きな掌に自身の指を絡めると、アレンは自身の魔力回路を世界の理から切り離し、空間の座標を直接掴み取った。
──世界が、紙を折り畳むように歪む。
次の瞬間、肺を満たしていた一階層の埃っぽい空気は消え失せ、代わりに二十九階層の安全地帯に漂う、湿り気を帯びた重厚な魔力の香りが二人を包み込んだ。
帝国の精鋭たちが数ヶ月の準備と多大な犠牲を払ってようやく辿り着くその階層へ、二人は瞬き一つの間に到達した。
そこから先の進撃は、もはや攻略とは呼べないものだった。
三十階層、四十階層、五十階層。
帝国の歴史が二千年の時をかけても、その深淵を覗くことさえ叶わなかった未知の領域。
二人はそこを、まるでよく手入れされた庭園を「散歩」するかのような悠然とした足取りで突き進んだ。
行く手を遮る鉄の壁。そこには、触れた瞬間に高密度の火焔や風刃を放つ複雑な魔導罠が幾重にも刻まれている。
しかし、アレンが一度視線を向けるだけで、空間に固定された術式の「核」はガラス細工のように砕け散った。
(……魔力の流れが不自然だ。ここで座標が捻じ曲げられているな)
アレンの「理外の視界」の前では、帝国が誇る最高峰の防衛機構も、ただの「書き損じの数式」に過ぎない。
術式構造を内側から崩壊させる《魔術消去》。その圧倒的な理の前に、迷宮は自身の牙を剥くことさえ許されず、ただ静かに沈黙を強いられていた。
「……魔導兵器の出力が上がっています。アレン様、ご注意を」
銀髪を揺らし、リィナが鋭く警告を発する。
現れたのは、山のような巨躯を持つ機械の怪異。歯車と魔力管を剥き出しにし、一撃で城壁を粉砕するほどの質量を伴って殺到する守護者たち。
「構わない。リィナ、そのまま下がっていろ」
アレンは表情を変えず、無造作に指先を振った。
「──《光束魔術》」
放たれた白銀のレーザーが、機械の巨躯が纏う三重の魔導装甲を、熱したナイフでバターを斬るように容易く貫通する。
一撃。ただの一撃で、帝国の「絶望」と呼ばれた守護獣たちはスクラップへと変わり、火花を散らして崩れ落ちていった。
リィナは主の傍らで、毎朝の儀式として施された《三重魔導護膜》を維持しながら、その背中を凝視し続けていた。
階層を重ねるごとに、アレンの魔力はより静かに、より鋭く、世界の根源へと近づくように研ぎ澄まされていく。
その異常なまでの成長速度と、何者にも届かない高みへと登っていく主の姿に、彼女は深い愛情と共に、震えるような「畏怖」を感じずにはいられなかった。
女神歴二一九六年、四月九日。
約一ヶ月の蹂躙を経て、ついに二人は最深部──第六十階層の重厚な扉の前に立った。
扉が開かれた先。そこには巨大な歯車が噛み合い、迷宮全体を震わせる凄まじい地響きを立てる「心臓部」があった。
この階層そのものが一つの巨大な意思を持ち、侵入者を排除せんと空間そのものを圧殺しにかかってくる。
「……これ、は……。空気が、重いです……」
リィナが《光盾》を張り、物理的な重圧を凌ぐ。
だが、アレンは一九二センチの長躯を微動だにさせず、ただ静かに右手をかざした。
「──《光刃魔術》」
アレンの指先から、数千年の歴史を断ち切るための「白銀の刃」が伸びた。
迷宮が誇る超高密度の物理障壁も、魔力装甲も、等しく無意味。
光速の斬撃は空間ごとボスの「魔力核」を真っ向から両断し、膨大な熱量を周囲に撒き散らしながら、迷宮の鼓動を停止させた。
ドォォォォォン……ッ!
凄まじい爆発音の後、最深部の主はただの鉄塊へと崩れ落ち、後に残ったのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。
「……本当に、終わったんですね。二千年、誰も届かなかった場所に……」
リィナが呆然としたように呟く。中央には、一際巨大で、深淵をそのまま固めたような最高純度の魔石だけが残されていた。
「ああ。……戻るぞ、リィナ。長居する場所じゃない」
アレンは無造作に魔石を回収し、踵を返した。
世界最強国家ヴァルゼン帝国の象徴たる『帝国魔導要塞』が、たった二人の「散歩」によって完全に陥落したという事実は、まだ帝都の誰も、そして皇帝ダリオスすらも知らない。
二人の影は、静まり返った鉄の深淵を抜け、再び地上へと向かい始めた。




