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帝都イグナイトの夜は、軍事国家特有の厳格な秩序に塗りつぶされていた。
窓の外に広がる街並みは、アルヴェリアの情緒やガルディアの機能美とは異なる、冷徹な魔導兵器の残光のような鋭い輝きを放っている。
しかし、最高級『ヴァルシオン・ホテル』のスイートルームの内部だけは、迷宮の鼻を突く鉄臭さや潤滑油の脂ぎった気配とは無縁の、柔らかな静謐が流れていた。
リィナは、手入れの行き届いたふかふかのベッドに腰掛け、一日の出来事を反芻するように小さく、けれど深い吐息を漏らした。
その指先は、まだ魔軌士局での異常な緊張感を記憶しているのか、わずかに震えている。
「……魔軌士局のあの緊張感、凄かったですね。あんなに多くの人から、値踏みされるような視線を向けられたのは初めてです」
銀髪を微かに揺らし、リィナが独り言のように呟いた。
帝都の支局は、アルヴェリアやガルディアとは明らかに空気の「質」が違っていた。
そこにあるのは、実力のみが生存を許すという、剥き出しの選民思想。
だが、リィナが視線を上げると、そこには窓辺で夜の街を見下ろす、逞しい背中があった。
「でも……アレン様が隣にいてくださったから。私、全然怖くありませんでした」
リィナは淡い青色の瞳を細め、主の背中に向かって慈しむような笑みを向けた。
かつて一人で絶望の淵にいた自分を救い出し、理外の隣を歩くことを許してくれた男。
アレン・ヴァルグレイという存在が放つ絶対的な安心感は、帝国のどんな威圧感をも容易に塗り潰していた。
「アレン様と一緒なら、私はどこへだって行けます。たとえ、この世界の果てであっても」
アレンは視線を外の夜景に向けたまま、振り返ることもなく、極限まで削ぎ落とされた言葉を返した。
「……そうか」
そっけない返答。だが、その声の響きには、慣れない帝都での強行軍で疲弊したリィナを気遣うような、微かな柔らかさが滲んでいた。
アレンは少しだけ、視線をリィナの座るベッドの方へと斜めに逸らし、短く言葉を継いだ。
「明日は、どうする」
「えっと……せっかくの帝都ですし、少しだけ観光したいな、なんて。アレン様と一緒に歩きたいです」
リィナが期待を込めて顔を輝かせる。しかし、アレンはその表情に惑わされることなく、断固とした口調で断じた。
「……休め。明日は一歩も外へ出るな」
「ふふ、はい。わかりました、アレン様」
突き放すような言葉。だが、その裏側にある「休養を優先しろ」という無自覚な優しさを、リィナは正確に受け取っていた。
魔力循環誓約によって繋がった二人の魂は、言葉以上の質量を伴って共鳴し合っている。
二人の距離が、また少しだけ、静かに、けれど確実に縮まっていく夜だった。
同じ頃。帝都の中心にそびえるヴァルゼン皇宮の一角、重厚な石壁に囲まれた『円卓の間』。
深夜にもかかわらず、そこには東大陸の、あるいは世界の勢力図を左右する「世界最強」たちが集められていた。
天井の魔導ランプが放つ冷たい青白き光が、参列者の纏う硬質な鎧を鈍く照らし出す。
上座の玉座に鎮座するのは、ヴァルゼン帝国皇帝ダリオス・ヴァルゼン。
その左右には、帝国が誇る特級魔軌士たちが、それぞれの誓導者を伴って冷徹な彫像のように控えていた。
序列一位、ヴァルツ・レグナス。
序列三位、アドラ・ヴェルンハイト。
そして、先日二十八階層での攻略を断念し、屈辱の撤退を余儀なくされたばかりの序列十位、ガルド・エルネスト。
「……報告は真実か。我が帝国が総力を挙げても足止めされている深層の魔石を、名もなき他国の者が、たった二人で持ち帰ったというのか?」
ダリオスの威厳に満ちた重低音が、静まり返った広間に地鳴りのように響く。
「帝国の誇る攻略部隊ですら、多大な損害を出して突破できぬ階層です。それをたった二人で、それもわずか半日で……。事実ならば、我々の魔術体系が否定されたも同然ですな」
ヴァルツが冷静に分析し、その背後に立つ三人の誓導者たちが静かに首肯した。
「魔石の質が本物であることは鑑定局が証明している。その実力は、我ら特級に比肩するか、あるいは……。いずれにせよ、帝国にとって制御不能な不確定脅威であることに変わりはない」
若き天才アドラの瞳に、獲物を見つけた猛禽のような鋭い好奇と警戒の火が走る。
「……信じられん。俺があの二十八階層で、どれだけの部下を失い、どれほどの煮え湯を飲まされたと思っている……!」
ガルドは屈辱に顔を歪ませ、自らの拳を白くなるまで強く握りしめた。
その傍らで、軍務大臣が強硬な姿勢を崩さず、身を乗り出した。
「迷宮の主権に関わる重大な侮辱です。その二人の身元を拘束し、力ずくででも帝国へ組み込むべきです!」
「短慮は慎まれよ、大臣。あの実力だ、下手に刺激すれば、この帝都イグナイトそのものが戦場になりかねん」
情報局長が冷徹な声で制止し、場に張り詰めた殺気が満ちる。
議論が臨界点を迎えようとしたその時、皇帝ダリオスが静かに立ち上がった。
その一挙手一投足、僅かな衣擦れの音にさえ、最強の魔軌士たちの視線が吸い寄せられる。
「……まずは接触だ。今は強制するな。奴らの『理』がどこにあるのかを見極めよ」
皇帝は、窓の外の深い闇の向こうを、見据えるように重く、明確に命じた。
「帝国こそが奴らの居場所であると、理解させよ。ヴァルゼンの『影』を動かせ」
巨大な帝国の歯車が、一人の理外の男を呑み込むために、音もなく、けれど確実に回り始めた。




