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ドラゴンとの邂逅から数日後。ガルディア公国の政治的中枢、白亜の巨城と謳われるガルディアス宮殿の一角に、張り詰めた沈黙が流れていた。
公女王エリシアの私執務室。厚い防魔結界と物理的な防壁に守られたその部屋で、セリス・ヴァレンティアは主君であるエリシアに対し、アレンから提示された「国家雇用」に関する最終的な条件を報告していた。
「……積極防衛のみを担当し、報復攻撃には限定的に参加。その他の雑務は一切受けないが、要相談。そして──」
セリスは手元の資料を一度閉じ、エリシアの澄んだ青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「『公国に常時滞在しない』。これが、アレン殿が提示した最大の条件でございます」
「……常時滞在しない、ですって?」
エリシアは美しい眉をひそめ、窓外に広がる公都の夜景に視線を投げた。
国家最強戦力として特級相当の魔軌士を雇う最大の意義は、有事の際の「即応性」にある。
他国からの魔導攻撃や大規模な魔術災害が発生した際、その場にいない戦力は、いかに強大であっても宝の持ち腐れでしかない。
「陛下。……不敬を承知で申し上げます」
セリスの声に、かつてないほどの熱が宿った。
「リィナ様は中等部時代、この私が一度としてその盾を抜くことができなかった防御の天才。そしてアレン殿は……特級魔軌士の上位十人を同時に相手にしても、塵一つ立てずに圧勝する、理を超えた存在です。……あの強さは、既存の国家戦力の物差しでは到底測れませんわ」
セリスの瞳に宿る、敗北の記憶と確信に満ちた光。
エリシアは数秒の沈黙の後、深く息を吸い、椅子の背もたれから背を離した。
「……分かりました。直接、会って話しましょう。……その男の『理』がどこにあるのかを、この目で確かめなくてはなりません」
引見は、その日の深夜、極秘裏に設定された。
列席者は公女王エリシア、特別補佐官セリス、そしてアレンとリィナの四人のみ。
深夜の執務室に、アレンとリィナが足を踏み入れた。
一九二センチの長躯を漆黒の衣装に包んだアレンは、一国の元首の前でありながら、散歩の途中に友人宅へ立ち寄ったかのような悠然とした佇まいを見せていた。
対照的にリィナは、銀髪を整え、主を支える第一誓導者としての洗練された所作を崩さず、その傍らに控えている。
「アレン殿。滞在の件、対応が遅れる懸念についてはどうお考えですか?」
エリシアが、公女王としての重みを帯びた声で問いかけた。
それに対し、アレンは黒い瞳に揺るぎない自信を湛え、静かに、けれど断定的な口調で応じた。
「問題ない。俺がここに常時いないことを危惧する必要はない。……理由は極秘事項だ。契約後なら話せるが、今は話せない」
不敵とも取れる回答。普通であれば不敬として切り捨てられる場面。
だが、室内の大気がアレンの言葉に共鳴するように微かに震え、エリシアとセリスは、彼が「嘘を言っていない」という得体の知れない重圧を肌で感じ取っていた。
「……分かりました。それについては、あなたの言葉を信じましょう」
エリシアが話題を切り替える。
「それでは、最も現実的な問題──『契約金』について、具体的な希望を伺っても?」
アレンは答えず、隣に立つリィナへと視線を促した。
リィナは一つ、深呼吸をして胸を張ると、アレン・ヴァルグレイという「理外の価値」に相応しい、天文学的な数字を淡々と口にした。
「正直、マスターは金額に興味がありません。ですが、国家雇用としての世間体、そして何よりアレン様の価値を正しく定義する必要があります。……ずばり、一年で『三兆エル』。これでいかがでしょうか」
三兆。
執務室の空気が、一瞬で凍りついた。
特級魔軌士の第一位から第十位、すなわち「世界最強」を十人集めてようやく五兆エルの予算が必要とされる。
その十人を容易にあしらう男を、たった一人の契約金で、三兆エル。
法外なようでいて、セリスの報告が真実であるならば、それは国防予算を根底から見直すべき「激安の契約」に他ならなかった。
執務室を支配していた重苦しい静寂を破ったのは、公女王エリシアの低く、けれど決断に満ちた声だった。
「……分かりました。アレン殿。一年で三兆エル、その条件でサインをしましょう」
エリシアは迷いを断ち切るように、机の引き出しから一通の羊皮紙を取り出した。それは単なる紙ではない。最高位の法術師によって紡がれた、因果の理を縛る「魔術契約書」である。
セリスはその金額の重みと、これから結ばれる契約の重大さに、思わず自身の拳を強く握りしめた。
「ただし、国家最強戦力としての雇用です。契約不履行、あるいは公国への背信行為があった際の罰則は──『死刑』。これに異存はありませんか?」
エリシアの青い瞳が、アレンを真っ直ぐに射抜く。それは女王としての冷徹な通告であり、同時にアレンの本気度を測る最後の試金石でもあった。
「死刑か。……ああ、構わない。裏切るつもりも、仕事を投げ出すつもりもないからな」
アレンは眉一つ動かさず、まるで明日の天気の話でもするかのような気軽さで即答した。
隣に立つリィナもまた、主の決断を疑うことなく、穏やかな微笑みを崩さない。
アレンは机に歩み寄ると、提示された契約書へ指先を向けた。
詠唱も、魔法陣も必要ない。彼の内側で渦巻く、既存の魔術体系を書き換える「理外の魔力」が指先に集束される。
──キィィィィィィィン……ッ!
空気が悲鳴を上げるような高周波の音が室内に響き渡る。
アレンが自身の魔力署名を刻んだ瞬間、契約書は目を焼くような白銀の光を放ち、アレンとエリシアを繋ぐ「因果の鎖」が空間に一瞬だけ実体化した。
契約成立。それは、エルディアの歴史上、最も高額で、最も異質な傭兵契約が結ばれた瞬間だった。
エリシアは眩い光の余韻の中で、一つ息を吐くと、ずっと抱いていた疑問を口にした。
「……さて。これで契約は成立しましたわ。……ではアレン殿、約束通り教えていただけますか? 『公国に常時滞在しない』と言い切れる、その理由を」
アレンはふっと口角を上げると、不敵な笑みを浮かべた。
「簡単な話だ。俺は、《空間転移》が使える」
その言葉が落ちた瞬間、エリシアとセリスの時が止まった。
「……てん、い……?」
セリスの喉から、震えるような掠れた声が漏れる。
現代魔術における空間干渉は、高精度の座標計算と天文学的な魔力を消費し、ようやく「数メートルの位置移動」を可能にするかどうかの夢物語に過ぎない。
だが、アレンが口にしたのは、理論さえ確立されていない、世界を変える「禁術」の二文字だった。
「理屈は抜きだ。呼んでくれれば、たとえ俺が世界の裏側にいたとしても……一瞬で、この首都へ駆けつけよう」
アレンの黒い瞳には、自身の能力に対する絶対的な確信が宿っていた。
公女王エリシアと特補官セリスは、ただ絶句してアレンの横顔を見つめることしかできなかった。
目の前の男は、三兆エルの価値がある戦力などではない。
彼は、エルディアという世界の均衡そのものを、その指先一つでひっくり返してしまえる、真の「理外」だったのだ。
深夜の執務室。
窓の外で瞬く二つの月が、史上最強の契約を結んだ四人の影を、静かに照らし出していた。




