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アレンとリィナが去った後の軍宿舎は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
セリス・ヴァレンティアは、照明を落とした自室の硬い椅子に深く身体を沈め、窓の外に広がるガルディアスの夜景を、焦点の定まらない瞳で見つめていた。
かつては誇らしげに眺めていた首都の機能美も、今はただ、遠い世界の出来事のように感じられる。
(……現実感がありませんわ。あまりにも、突拍子がなさすぎます)
彼女の脳裏には、数時間前に交わされた言葉の奔流が、濁流となって渦巻いていた。
伝説の魔術師セラフィナ・エルフェリス。その意志を継ぐ魔術生命体ルミナ。そして、それらをその身に宿し、既存の魔術体系を嘲笑うかのように無効化した黒髪の青年、アレン。
リィナが語った「二十五階層を超えた未踏域の記憶」に至っては、もはや現代魔術理論の範疇では処理しきれない情報の塊だった。
「『アレンの心を支える人になる』……ルミナ、あなたは私にそう言いましたわね」
セリスは膝の上で、自身の白い掌を見つめた。
辺境伯家の令嬢として生まれ、公国の期待を一身に背負い、軍人としての誇りを胸に生きてきた。
世界最高峰の『誓環学院』を首席で卒業し、並み居る強者たちを退けてきた彼女にとって、今更誰かの「誓導者」となり、人生のすべてを他者に預けるという決断は、これまで築き上げてきた自分自身を否定することと同義だった。
(怖い……。……わたくしのキャリアは、ここで終わってしまうというのですの?)
だが、恐怖と同時に、彼女の魂の深奥では抗い難い「渇望」が脈動していた。
アレンが見せた、あの理外の光景。
全霊を込めた自身の術式が、彼の歩み一つで消え去った瞬間の、あの圧倒的な敗北感。
それは屈辱ではなく、自分たちの信じてきた「常識」という狭い檻を打ち破る、福音のようにも感じられたのだ。
リィナが、あの慎み深くも誇り高い旧友が、一瞬の迷いもなくすべてを捧げたと語る理由。
それを、自分の魂もまた理解し始めていた。
翌朝。セリスはガルディア公国の公女王、エリシア・ヴァルステイン・ガルディアに呼び出され、宮殿へと向かった。
重厚な石造りの回廊に、軍靴の音が虚しく反響する。
女王の私室に通されたセリスは、窓辺に立つ公女王の背中に向かって深く頭を下げた。
エリシアはゆっくりと振り返り、セリスの強張った表情を慈しむような眼差しで見つめると、すべてを察したように薄く微笑んだ。
「……迎えが来たのね、セリス」
「……はい、陛下。……アレンと名乗る男、そしてリィナ様が、わたくしの前に現れましたわ」
「そう。やっぱり……。あの方が言っていた通り、本当に来たのね」
エリシアは椅子に座るよう促し、自身も対面に腰を下ろした。
セリス・ヴァレンティアという存在は、この国にとって単なる一人の軍人ではない。
誓環学院高等部、第二六七代首席卒業生。
卒業時に彼女に寄せられたスカウトの数は、学院創設以来の過去最多を記録している。
大陸最強の特級魔軌士たちですら、彼女の才能を求めて列をなしたほどの、文字通りの「公国の希望」だった。
「ガルディアは今、特級の魔軌士を欠き、周辺諸国との軍事バランスに不安を抱えています。……だからこそ、特級No.10に互角と言われるあなたを、国はなりふり構わず繋ぎ止めた」
契約金、一年で五千億エル。
それは特級魔軌士の最上位十名のみに許される、破格の「国家最強戦力」としての待遇だった。
だがエリシアは、セリスが契約の際に提示した唯一の、そして最も困難な条件を忘れてはいなかった。
「あなたは言いましたわね。『もし、自分のすべてを捧げるべきマスターが現れたら、契約を解除して国を離れる可能性がある』と」
「……はい。それが、わたくしが陛下と交わした唯一の我儘でした」
「私はそれでも構わないと言ったわ。セリス、あなたの人生は、あなたのものだから。……けれど、女王として一つだけ、お願いがあるの」
エリシアの瞳に、公女王としての責任と、一人の年上の友人としての優しさが交互に浮かぶ。
「一年契約の残り七か月、せめてその間はこの国に残ってほしい。……そして、あなたが選んだマスター……アレン殿にも、この国と契約してくれるよう、あなたから頼んでみてほしいの」
セリスは息を呑んだ。
「アレンさんが、この国と……?」
「ええ。そうすれば、あなたもこの国に残れるでしょう? ……彼のような存在を野に放っておくには、この世界は少しばかり騒がしすぎるわ」
エリシアの言葉は、重い鉛となってセリスの胸に沈み込んだ。
国家の命運を左右する期待。女王からの個人的な願い。アレンからの誘い。そして、一七〇〇年前からルミナが紡いできた運命。
すべてが複雑に絡み合い、セリスという一人の女性を、時代の濁流へと押し流していく。
「……承知いたしました、陛下。……一度、彼と真剣に話してみますわ」
「ええ。あなたの答えを……そして彼らの答えを、待っているわ」
セリスは深く頭を下げ、部屋を辞した。
宮殿の出口へ向かう足取りは、まだ迷いに揺れている。
けれど、その瞳の奥には、新たな世界を切り開こうとする意志の光が、微かだが確実に灯り始めていた。




