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手合わせの余韻が冷めやらぬ中、アレンたちは公国軍中央武術施設の一角にある個室へと場所を移した。
そこは軍の機密保持のために設計された無機質な空間で、壁面には外部への魔力漏洩を完璧に遮断する特殊な結界が幾重にも張り巡らされている。
セリスはパイプ椅子に深く腰を下ろしていたが、その指先はまだ微かに震えていた。
自身の誇りであった軍用上級魔術が、指先一つで「無」へと還された衝撃。
目の前で泰然と座るアレンという男が、エルディアの数千年にわたる魔術体系の「外側」に立っていることを、彼女の理性がようやく認め始めていた。
沈黙を破ったのは、アレンの傍らに控えていたリィナの穏やかな声だった。
「セリス様……。昨年、首都ガルディアスで見かけましたよね? 身長二十センチほどの、光り輝く妖精のような存在を」
セリスの青色の瞳が大きく見開かれた。
「……ええ。忘れるはずがないわ。あの日、中庭で訓練していた私の前に突然現れて、不可解な言葉を残していった……。あれは、一体何だったの?」
リィナは一度アレンと視線を交わすと、迷いのない口調で答えを告げた。
「彼女の名は『ルミナ』。一七〇〇年前、伝説の魔術師セラフィナ・エルフェリス様が、ある目的のために創造した魔術生命体です」
「女神……セラフィナ……」
公国の軍人であり、誓導者候補としての高等教育を受けたセリスにとって、その名は信仰の対象であり、歴史そのものだった。
その伝説の存在が、現代に干渉するために創り出した「欠片」。
セリスが混乱に陥る中、アレンは静かに、自身の胸へと手を当てた。
「ルミナは……ここにいる」
「……え?」
「あいつは、俺の魔力回路を正常に開くための『鍵』だった。……今は俺の魔力の一部として吸収され、この中で生きている」
アレンの黒い瞳には、嘘偽りのない真実が宿っていた。
伝説の女神が遺した最後の遺産が、目の前の男の中に在る。
その事実の重さに、セリスは目眩を覚えた。
アレンが見せた理外の力──魔術を消し去り、物理法則をねじ伏せる力は、すべて女神が設計した「救済の力」の断片だったのだ。
さらにリィナが、畳みかけるように核心を告げる。
「それと、アレン様と私は、すでに『魔力循環誓約』を結んでいます。……アレン様は、私のマスター(主)です」
セリスは息を呑んだ。
魔力循環誓約。社会的にも婚姻と同格と見なされ、一度結べば解除は極めて困難、生涯を共に歩むことを魂に刻む絶対的な契約。
あの誇り高い旧友であるリィナが、これほど短期間で、一人の男にすべてを捧げたという事実。
二人の間に流れる、静かで、けれど何者も入り込ませない強固な信頼の糸を、セリスは肌で感じ取っていた。
アレンは視線を逸らさず、セリスを真っ直ぐに見据えた。
「セリス。君も、俺たちの仲間にならないか?」
「っ……」
「ルミナが言っていた『未来を支える人』──その一人が君だ。……俺には、君の力が必要なんだ」
女神、魔術生命体、そして唐突な仲間への誘い。
軍人としての積み上げてきたキャリア、辺境伯令嬢としての義務、そして一人の女性としての戸惑い。
現実感を超えた情報量の奔流が、セリスの思考を完全に停止させた。
「…………」
「無理にとは言わない。……考えてみてくれ」
アレンはそれだけ告げると、セリスに一人で考える時間を与えるため、先に椅子を引いて部屋を後にした。
残されたのは、かつての級友である二人の女性だけだった。
「……リィナ様。あなたはどうして、彼をそこまで信じられるの?」
セリスの掠れた問いに、リィナは穏やかに、けれど揺るぎない確信を込めて語り始めた。
「私は、特級魔軌士上位の戦いを間近で見たことはありません。でも、一つだけ絶対に変わらない事実があります。……アレン様に向けられた攻撃は、たとえそれがどれほど強大な魔獣であろうと、あなたの軍用魔術であろうと、彼の身体に届く前にすべて霧散するのです」
セリスは先ほどの手合わせを思い出し、背筋に冷たいものが走った。
自身が放ったすべての連撃を、「散歩」のように歩きながら無効化した男。
「アレン様が傷ついたことは、一度もありません。……たとえ特級魔軌士の一位から十位までの十人を同時に相手にしても、アレン様が負ける姿なんて、私には想像できないんです」
リィナはさらに声を落とし、秘密を共有するように言葉を継いだ。
「それと、これは公にはしないでください。……アレン様と私は、アルヴェリア王国にある四大迷宮『蒼風峡谷』の、本当の最終階層を知っています」
「えっ……どういう……!? あそこは二十五階層までしか……」
リィナはいたずらっぽく微笑むだけで、具体的な数字を明かすことはなかった。
彼女は立ち上がると、扉に手をかけてから最後にもう一度、セリスへと振り返った。
「本当の理由は……女神セラフィナ様が決めたことだからです」
(本当は、アレン様の思考が読めるから。……あの方が、誰よりも不器用で、誰よりも優しい人だと知っているから)
リィナはその心の内の声を飲み込み、静かに部屋を出ていった。
静寂が戻った個室。
セリスは一人、拳を強く握りしめ、自身の白い掌を見つめた。
国の期待、辺境伯家の誇り、そしてルミナが遺した「未来」という名の予言。
揺れる灯火のように激しく交錯する感情の中で、彼女の運命は、かつてないほど大きな転換点へと向かおうとしていた。
「……一週間。一週間だけ、考えさせてください」
誰もいなくなった部屋で、彼女の独白だけが、魔力遮断壁の内に虚しく反響した。




