6-3
二日間の甘美で穏やかな休息は、ガルディアスの夜の帳と共に幕を閉じた。
アレンとリィナが指定された待ち合わせ場所へと向かう道中、先ほどまでの水族館の余韻は、近づくにつれて色濃くなる軍事的な緊張感によって上書きされていった。
目的地は、公国軍が管理する中央武術施設。
都市の華やかなネオンから隔絶されたその建物は、魔術の暴発や高威力の衝撃を完全に封じ込めるための特殊防壁「アダマン・コンクリート」に覆われた、巨大な無機質の塊だった。
「……なあリィナ。初対面の挨拶に指定するには、随分と物騒な場所だな。ここは」
アレンが首を傾げると、隣を歩くリィナは少しだけ困ったように眉を下げ、苦笑を浮かべた。
「セリス様は現在、公女王陛下付きの特別補佐官として軍の枢機に身を置いておられますから。……彼女にとって、ここは自分の庭のような場所なんです。……それに、軍人としての彼女なりの『礼儀』なのかもしれません」
厚さ数十センチはあるだろう重厚な鉄製の扉が、油圧の唸りを上げて左右に開かれた。
内部に広がっていたのは、数千人を収容できるほどに広大な屋内訓練場だ。天井には強力な魔導照明が規則正しく並び、不純物を一切排した冷たい空気が張り詰めている。
その、だだっ広い空間の奥。
アレンたちの侵入を告げる軍靴の反響を背に、一人の女性が凛として佇んでいた。
金色の長い髪が、空調の微かな風を受けて絹のように揺れる。
彼女が纏うのは、ガルディア公国軍の漆黒の軍服。一糸乱れぬ着こなしと、辺境伯家の令嬢としての高貴な気品、そして最前線で死線を潜り抜けてきた魔術師としての鋭い「圧」が、その細身の体躯から放たれていた。
「お久しぶりです、セリス様。……いえ、セリス補佐官とお呼びすべきでしょうか」
リィナが先に進み出て、旧友への親愛を込めた声をかける。
セリス・ヴァレンティアは、一瞬だけ青色の瞳を和らげ、懐かしげに口元を緩めた。
「ええ、久しぶりね、リィナ様。中等部の卒業式以来かしら。……元気そうで何よりですわ」
だが、その再会の喜びは、彼女が視線をアレンへと向けた瞬間に霧散した。
セリスの瞳が、鑑定士のような冷徹な輝きを帯びる。彼女は軍服の襟を正し、一歩前へ踏み出した。
「……あなたがアレンさんですね。リィナ様が、自らの人生のすべてを預け、魂の伴侶として選んだという……『理外の男』」
「よろしく。アレンだ」
アレンが気負わずに応じると、セリスの周囲の大気が、パチパチと静電気を帯びたように震え始めた。
彼女は自身の内側で渦巻く膨大な魔力を、軍人特有の洗練された所作で抑え込みながら、静かに、けれど逃げ場のない宣告を口にする。
「一つ、お願いがあります。アレンさん。……あなたの実力を、ここで私に確かめさせてくださいませ」
「セリス様……!」
リィナが止めようと声を上げるが、セリスの意志は揺るがなかった。
彼女には軍の要職としての責任、そして世界最高峰の『誓環学院』を首席で卒業した天才としての誇りがある。
何より、昨年のあの日──あの光り輝く妖精ルミナに告げられた『あなたはアレンの心を支える人になる』という予言。
その真偽を、他者の言葉ではなく、自分自身の魔術で、その肌で確かめなければ、彼女の誇りは納得しなかったのだ。
アレンは少し困ったように頭を掻いた。
「……まあ、そっちがどうしてもって言うなら。その代わり、俺は攻撃しないよ。……リィナの友人を、怪我させたくないからな」
「……え?」
セリスの美しい眉が、不満げにひそめられた。
「手加減されるのが不満ですか? 私の攻撃魔術は、無抵抗で受け切れるほど甘くはありませんわよ」
「いや、そういう意味じゃなくてな……」
アレンはそれ以上説明せず、ただ両手をポケットに突っ込んだまま、十メートルほどの距離を保って対峙した。
「……では、参ります!」
セリスが鋭く足を踏み込んだ。
刹那、彼女の周囲に複雑な幾何学模様を描く魔術陣が展開される。
現代魔術の極致──軍人として極限まで無駄を削ぎ落とした、正確無比な高速詠唱が防壁に反響した。
「──《雷槍》!」
バキィッ、という鼓膜を劈くような放電音。
紫電を纏った一条の光の槍が、空気をオゾン臭で焼き焦がしながら、アレンの胸元へ向かって一直線に突き進んだ。
アレンの「理外の視界」は、その雷槍の構造を瞬時に透過していた。
(……火と風の複合。座標固定の甘さを、純粋な出力で補っている。……だが、魔力の継ぎ目がここにある)
アレンは微動だにしなかった。
彼はポケットからゆっくりと片手を引き抜くと、目の前を通り過ぎる羽虫でも払うかのように、指先を小さく横に振った。
──パチン。
軽い、爪を弾くような音が響いた瞬間。
直撃するはずだった《雷槍》は、アレンの指先に触れることさえ叶わず、まるでガラス細工が砕けるように、一条の光の粒子となって虚空へと霧散した。
「……っ!? 消え……た……?」
セリスの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
不発ではない。不発ならば魔力の残滓が残る。だが今のは、完成していた術式が、彼の指先一つによって強制的に「無」へと還されたのだ。
自身の放った《雷槍》が、接触の瞬間に光の塵となって消えた光景を、セリスの脳は正しく認識することを拒んでいた。
(今、何が起きましたの……? 術式の崩壊? いえ、そんなはずはありませんわ……私の構築に、一分の隙もなかったはず!)
「……次、来るんだろ?」
アレンの気の抜けたような声が、広大な訓練場の静寂を切り裂く。
その平然とした佇まいに、セリスのプライドに火がついた。彼女は辺境伯令嬢としての気品を脱ぎ捨て、一人の「軍人」としての鋭利な殺気を解放する。
「……舐められたものですわね。ならば、これならどうですの!?」
セリスの両手が、幾何学的な魔法陣を空中に高速で描き出す。
大気が熱を帯び、彼女の周囲に紅蓮の粒子が渦巻いた。軍の対大型魔獣戦でも主力とされる、火属性上級魔術。
「──《爆炎砲》、収束固定! 穿ちなさい!」
咆哮と共に放たれたのは、高密度に圧縮された熱量の奔流。
数千度の火焔が太い光束となり、訓練場の空気を膨張させ、熱波となってリィナの髪を激しくなびかせる。並の魔術師であれば、その圧力だけで意識を刈り取られるほどの「死」の重圧。
だが、アレンは眉一つ動かさない。
彼の「理外の視界」には、迫りくる紅蓮の光束の核――魔力を一点に繋ぎ止めている「座標の楔」が、鮮明に透過していた。
アレンは、まるで散歩の途中に邪魔な枝を払うかのような無造作な動作で、再び指先を動かした。
──パチン。
二度目の破裂音。
次の瞬間、訓練場を焼き尽くさんばかりの勢いだった《爆炎砲》は、アレンの数センチ手前で、熱量すら残さず虚空へと吸い込まれるように消滅した。
煙も、爆音も、魔力の残滓すら存在しない。ただ、そこには初めから何もなかったかのような「無」の静寂だけが戻っていた。
「な……っ!? 《真空刃》! 《光槍》!」
セリスの瞳に焦燥が走る。
彼女は、自身の全魔力を絞り出すような勢いで、息つく暇もない連撃を叩き込んだ。
空間を切り裂く不可視の風の刃、そして光速で突き進む一条の光の槍。軍人の実戦魔術が、幾重にも重なる暴力となってアレンへと殺到する。
しかし、アレンの歩みは止まらない。
彼は両手を再びポケットに突っ込むと、降り注ぐ魔術の嵐の中を、ただ「歩いて」進んでくる。
彼の周囲では、触れるものすべてを破壊するはずの魔術が、体表に届く直前で次々とガラス細工のように砕け、消えていく。
(……なによ……これ……!? 私の攻撃が、掠りもしない……!? 魔法陣も、詠唱も、動作すらない。ただ歩いてくるだけで、世界の理が彼に従って書き換えられているというのですの!?)
セリスの背中に、初めて「恐怖」という名の冷たい汗が伝う。
彼女がこれまで信じてきた、現代魔術の積み上げてきた理論、学院で首席を勝ち取った誇り、軍人としての実績。それらすべてが、目の前の男の「歩み」によって、音を立てて崩壊していく。
アレンはいつの間にか、セリスの目の前、手を伸ばせば触れられる距離にまで肉薄していた。
「っ、しまっ──」
反射的に防御術式を展開しようとしたセリスだったが、すでに指先が魔力を編み上げるよりも速く。
アレンの右拳が、風を裂く音さえ置き去りにして、彼女の視界を真っ黒に塗りつぶした。
ドンッ!!
鼓膜を揺さぶる凄まじい風圧。
セリスの長い金髪が、衝撃波を受けて後ろへと激しく跳ね上がる。
彼女は完全に動きを止め、皿のように見開かれた青色の瞳で、目の前の光景を凝視していた。
アレンの巨大な拳は、彼女の腹部のわずか数ミリ手前で、完璧に静止していた。
衣服に触れることさえ許さない、神速の「寸止め」。
もし、この拳がそのまま叩き込まれていたら。
自身の纏う障壁など紙切れ同然に粉砕され、肉体は訓練場の壁まで吹き飛ばされていただろうという確信。
セリスは膝の震えを抑えることができず、ただ、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
アレンはゆっくりと拳を引くと、何事もなかったかのようにふぅ、と溜息を吐いた。
「……これで、終わりでいいか?」
静寂が支配する訓練場に、彼の気の抜けた声が響く。
セリス・ヴァレンティアという「公国の至宝」が、指一本触れることもできずに完敗を喫した瞬間だった。
アレンの拳が引き起こした凄まじい衝撃波が、訓練場の広大な壁面に叩きつけられ、雷鳴のような残響を響かせて消えていった。
吹き荒れた風が収まった後、そこには真空の底に沈んだような、重苦しいまでの「無」の静寂が降りる。
セリスは、目の前に突きつけられた大きな拳を、まばたき一つせずに見つめ続けていた。
衣服の繊維一本さえ傷つけず、けれど物理的な質量が持つ「死」の予感だけを、彼女の魂に直接刻み込んだ神速の寸止め。
彼女の纏っていた障壁は、破壊されることさえ許されず、対象の圧倒的な理の前に、ただ震えて沈黙していた。
「……はぁ。君の攻撃、マジで死ぬかと思ったよ」
アレンがゆっくりと拳を引き、肩の力を抜いて放ったのは、あまりにも場違いな、気の抜けた溜息だった。
彼は後頭部をポリポリと掻きながら、緊張感の欠片もない調子で言葉を続ける。
「……え……? 死ぬかと、思った……?」
セリスの喉から、掠れた声が漏れ出た。
あれほどの蹂躙を見せつけ、自分という存在のプライドを完膚なきまでに叩き潰した男が、なぜ被害者のような顔をして立っているのか。
その問いに対し、アレンは悪びれもせず、困ったような苦笑いを浮かべて答えた。
「いや、俺さ、手加減された攻撃魔術を捌くのって一番苦手なんだよ」
「……なんです、って?」
「本気で殺しに来てくれた方が、魔術の軌道も術式の核もはっきり見えるから、消しやすいんだ。……でも君の魔術は、どこか俺を傷つけないようにっていう『迷い』が混じってただろ? 座標が揺らぐと、こっちは《魔術消去》のタイミングを合わせるのに、冷や汗が出るんだよ」
アレンは本心から言っているようだった。
だが、その言葉こそが、セリスにとって何よりも残酷な「強者の証明」だった。
自分が誇りを持って放った軍用魔術の数々。それを彼は、危険な攻撃としてではなく、ただ「消しにくいノイズ」程度にしか認識していなかったのだ。
(……強い……。あまりにも、次元が違いすぎますわ……)
セリスの背中に、冷たい汗が伝う。
「本気で殴り返したら、君を怪我させちゃうからさ」という彼の言葉は、配慮であると同時に、もし彼にその気が一瞬でもあれば、自分はこの世に影さえ残さず消し飛ばされていただろうという現実を、冷徹に突きつけていた。
セリスは、震える膝を自身のプライドで無理やり抑え込み、乱れた軍服の襟を正した。
彼女は深く、深く息を吐き出すと、手にしていたレイピアを鞘に収め、アレンに向かって静かに頭を下げた。
「……参りました。……わたくしの、完敗ですわ。アレンさん」
その声には、敗北の屈辱ではなく、自分たちの信じてきた「常識」という殻を軽々と踏み越えた者への、畏怖と、そして言いようのない期待が混じっていた。
「あなたという人は……本当に、リィナ様がすべてを信じ、自らの人生を預けるに足る……理の主、だったのですね」
セリスが顔を上げると、そこには、誇らしげに胸を張り、眩しいほどの笑みを浮かべるリィナの姿があった。
「ふふ、セリス様。言ったでしょう? アレン様は……本当にとんでもなく、すごいお方なんです!」
親友の無邪気な誇らしさが、今はなぜか、心地よくセリスの胸に染み込んでいく。
天才と呼ばれ、公国の未来を双肩に背負わされてきた孤独な少女は、いま初めて、自分が全力で寄りかかっても微塵も揺るがない、巨大な「壁」に出会ったのだ。
「……分かりました。アレンさん。……あなたに会えて、本当によかったですわ」
セリスの青色の瞳に、新たなる未知への期待と、運命を受け入れる覚悟の光が灯る。
冷徹な訓練場を支配していた殺伐とした空気は、いつの間にか、新たな時代の幕開けを予感させるような、静かな熱を帯び始めていた。




