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一日目。魔術庭園。
そこは、ガルディアスの北部に位置する、広大な円蓋状の結界に包まれた人工の楽園だった。
重厚な魔導門を潜り抜けた瞬間、アレンの五感を支配していた冬の寒冷な空気は霧散し、代わりに湿り気を帯びた花の香りと、柔らかな陽光の温もりが全身を包み込んだ。
「わあ……! 今年も綺麗に咲いていますね……」
リィナが感嘆の声を上げる。
アレンの視界の先には、季節を無視して満開を迎えた数千本の桜が、淡い薄紅色の雲のように広がっていた。
高度な環境維持魔術によって、一年を通じて「春」が固定された空間。
頭上からは、魔力の光を孕んだ花びらが、雪よりも優雅に、スローモーションのように舞い落ちてくる。
「……すごいな。外は雪が降っているってのに、ここは別の世界だ」
アレンが歩みを進めるが、八時間のフライトによる三半規管の乱れは、まだ彼の巨体を完全には解放していなかった。ふらりと足元を乱した刹那。
「アレン様!」
銀髪を揺らしたリィナが、弾かれたように駆け寄り、アレンの逞しい腕を両手でしっかりと支えた。
少女の細い指先から伝わってくる、驚くほどの熱量と、必死に彼を支えようとする意志。
「……悪い、リィナ。少し揺れた」
「いいえ。……無理をしないでください。今は私が、アレン様の足元になりますから」
リィナは心配そうにアレンを見上げるが、その瞳には彼を支えられることへの、密やかな喜びが滲んでいた。
二人は桜の並木道を、寄り添うようにゆっくりと歩いた。
リィナの淡い青色の瞳が、舞い散る花びらを追って子供のように動く。
アレンはその横顔を見つめながら、ふと、自身の内に溶け込んだ小さな妖精の存在を思い出した。
「……ルミナもここを見たら、喜んだろうな」
アレンの言葉に、リィナは一瞬、足を止めて目を伏せた。
「……はい。きっと、はしゃぎ回って、アレン様の頭の上で花びらを散らしていたと思います」
かつて、孤独だったリィナに「大切な人が現れる」と告げ、命を懸けて未来を繋いだ小さな友。
今はアレンの魔力の一部となり、姿を見ることは叶わない。
けれど、この満開の桜の下で、リィナには確かにルミナの笑い声が聞こえたような気がした。
アレンは空いた方の大きな手で、リィナの銀髪を優しく撫でた。
「……お前が、あいつの分まで見てやればいい」
「っ……、はい……!」
リィナは驚いたように肩を震わせ、幸せそうに目を細めてアレンの掌の温もりに浸った。
魔術によって作られた偽りの春。
けれど、二人の間に流れる温かな空気だけは、いかなる古代魔術でも再現し得ない、本物の熱を帯びていた。
ガルディアスでの休息、二日目。
アレンとリィナが訪れたのは、公国の中央部に位置する巨大な複合施設、魔術水族館だった。
そこは、ガルディア公国の「精密な魔力制御技術」の粋を集めた場所であった。
入り口を抜けると、そこには音のない、深い静寂の世界が広がっていた。
頭上から足元までを覆い尽くすのは、厚さ数メートルの強化ガラスですらない。高密度に圧縮され、物理的な「壁」として固定された純粋な水属性魔力の障壁だ。
「わあ……っ! アレン様、見てください! 浮いています!」
リィナが弾んだ声を上げ、透明な壁の向こうを指差した。
そこには、生物学的な定義を無視した「光の魚」たちが泳いでいた。
それらは実在する生命体ではなく、プログラムされた魔導核を核に、淡い燐光を放つ魔力体として形成された擬似生命。
サファイアのように煌めく小魚の群れが、アレンの歩みに合わせて波打ち、銀髪のリィナの周囲を祝福するように旋回する。
(……魔力波形が極めて規則的だ。これだけの数を破綻なく維持するとは、公国の術師の技量も馬鹿にはできないな)
アレンは「理外の視界」を通じて、空間を充満する蒼い光の粒子を分析していた。
しかし、その冷徹な観察眼も、隣で無邪気に瞳を輝かせる少女の熱量に、少しずつ溶かされていく。
リィナの淡い青色の瞳には、水中に揺らめく光が映り込み、まるで彼女自身が深海の妖精であるかのような幻想的な美しさを醸し出していた。
「リィナ。……こういう場所、お前は好きか?」
不意に問いかけられたリィナは、驚いたように肩を揺らし、それから柔らかく、けれど力強く頷いた。
「はい! 大好きです! ……こんなに静かで、温かい光に包まれていると……独りだった頃の寂しさなんて、全部忘れてしまいそうで」
リィナは少しだけ言い淀み、勇気を振り絞るようにしてアレンの漆黒の袖を掴んだ。
指先から伝わる微かな震え。彼女はアレンの顔を覗き込み、潤んだ瞳で問い返す。
「……アレン様は、どうですか? 私と一緒に来て、楽しんでいただけていますか?」
アレンは、掴まれた袖に視線を落とした。
本来、自分は「この世界の外側から来た存在」であり、いかなる文明の産物も、自身の孤独を埋めるには至らないはずだった。
だが、いま掌に感じる温もりだけは、いかなる理よりも確かな重みを持っていた。
アレンはふっと表情を和らげると、自分を見上げるリィナの肩を、空いた方の腕で軽く抱き寄せた。
「お前が楽しそうなら、それでいいよ」
「……っ……はい……!」
リィナの声が、感極まったように震える。
彼女は自身の顔が熱くなるのを感じながら、アレンの逞しい肩に、そっとその身を預けた。
魔力循環誓約によって繋がった二人の魂が、共鳴の波形を描き、周囲の「光の魚」たちがそれに呼応するように一層強く輝く。
頭上を漂う光のクラゲが、幻想的な青い燐光を放ちながら、二人を祝福するようにゆっくりと通り過ぎていった。
明日には、軍人としての誇りと辺境伯令嬢の気品を纏った「もう一人の候補者」──セリス・ヴァレンティアとの、運命を懸けた対峙が待っている。
けれど、今の二人の間には、迷宮の殺伐とした空気も、国家間の陰謀も届かない。
ただ穏やかで、深海のように静かな、甘い休息の時間だけが流れていた。




