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白亜の巨塔が天を突くセレノア魔術学院。その最上階に位置する学院長室は、円形の壁一面が巨大な魔導書架となっており、数千年の歴史が刻まれた羊皮紙の香りと、最新の演算端末が発する微かなオゾンの匂いが混ざり合っていた。中央に置かれた白大理石のデスクの向こう側、この国の「知」の頂点に座る女性、アウレリア・ヴァルセリオンが静かに立ち上がった。
「ようこそおいでくださいました、公女王陛下。……そして、貴方が」
アウレリアの視線が、エリシアの数歩後ろに佇むアレン・ヴァルグレイを射抜いた。アレンは光を吸い込み、定義を拒絶する漆黒の影そのものとなってそこに佇んでいた。彼の感情を削ぎ落とした瞳で室内の魔力圧を観測している。彼の《魔力直接操作》は、この部屋全体がアウレリアの管理下にある巨大な「解析陣」であることを瞬時に悟っていた。
「セレノア魔術学院院長、アウレリア・ヴァルセリオンですわ。……魔軌士No.0。貴方の存在については、本局からも『理論外の特異点』として報告を受けております」
アウレリアが歩み寄る。彼女が纏う白銀のローブが、歩みに合わせてさらさらと上品な衣擦れの音を立てた。アレンの傍らでは、リィナ・フェルウェンが、学院長の放つ「知性の重圧」に僅かに喉元を強張らせ、呼吸を整えていた。セリス・ヴァレンティアは、かつて自身が目指した理論の極致を体現するアウレリアに対し、ガルディアの魔術師としての敬意を込め、背筋を伸ばしてその挙動を見守っていた。
「失礼を承知で……少しばかり、覗かせていただきますわ」
アウレリアの深紫の瞳が、一瞬だけ鋭く発光した。
《理象視》。
それはセレノアの理論を極めた彼女だけに許された、世界の理を設計図として読み解く権能。彼女の視界では、通常、すべての事象は緻密な幾何学模様のグリッドとして表示されるはずであった。エリシアの周囲には高貴な王族の循環が、セリスやリィナの足元には洗練された誓導者の回路が、美しい数式となって流れている。
だが、アレン・ヴァルグレイという座標に焦点を合わせた瞬間、設計図は悲鳴を上げた。
「……っ、な、に……!?」
アウレリアの視界を支配したのは、美しい数式でも、高密度の魔力流でもなかった。
そこにあったのは、あらゆる理を吸い込み、定義を拒絶する「絶対的な空白」。アレンの輪郭をなぞろうとするグリッドは、その身に触れた瞬間に次々と破綻し、エラーを吐き出しながら霧散していく。設計図のない存在。原因も結果も、過程すらも観測できない不条理の塊。
「う、あ……ッ」
アウレリアは激しい眩暈に襲われ、デスクの端を強く掴んで辛うじて踏み止まった。脳内を駆け巡る膨大なエラーログ。生涯をかけて積み上げてきた「魔術理論」という名の定規が、アレンという深淵を測ろうとした瞬間に粉々に砕け散った感覚。
「……アウレリア院長。あまり深入りしない方がいい」
アレンの極低温の声が、静まり返った室内に響いた。アレンは苦悶に顔を歪める院長を一瞥し、感情を交えずに告げた。
「院長の『眼』は、出来上がった布の縫い目を見るためのものだ。……悪いが、俺には最初から『縫い目』なんて存在しない。……あなたが信じているその定規では、俺の空気は重すぎるだろう」
アウレリアは荒い呼吸を繰り返しながら、ようやく顔を上げた。彼女の瞳には、先ほどまでの威厳に代わり、理解不能な存在を目の当たりにした原始的な戦慄が宿っていた。サツキ・ハートフィールドは、アレンの背後で主の魔力圧が周囲の空気を物理的に押し広げているのを感じ取り、武人としての静かな重圧を院長へと向けた。
「……アレン殿。貴方は……貴方は一体、何なのですか……。理論上、存在し得ない『空白』が、なぜ人の形をして歩いているのです……」
「……さあな。俺も自分のことはよく分かっていない」
アレンはそれ以上言葉を重ねることなく、窓の外に広がる幾何学の街並みへと視線を戻した。彼の漆黒の瞳に映る白磁の街並みは、変わらぬ午後の光を浴びて静かに輝いていたが、その整然とした美しさが、いま自分という存在によって静かに揺らいでいることを、アレンは誰よりも冷静に理解していた。
エリシアは、崩れ落ちるように椅子へと沈み込むアウレリアの姿を、痛ましげな面持ちで見つめていた。彼女は公女王としての立場から、この事態に対する言葉を探そうとしたが、アウレリアが直面した「理論の崩壊」という現実の前では、いかなる政治的言辞も無力であることを悟っていた。
「……アウレリア院長。無理をなさらず……」
エリシアが静かに声をかけると、アウレリアは震える手で自身の胸元に下げた学院長の証を握りしめ、荒い呼吸の合間に力なく笑みを浮かべた。
「……お気遣い、痛み入りますわ、公女王陛下。……ですが、これは、わたくし自身の目で確かめなければならなかったことです。……セレノアが積み上げてきた理論の限界を」
知の頂点に立つアウレリア院長に刻まれたのは、一国の主としての敬意ではなく、生涯のすべてを費やした学問が通用しないという絶望的な「敗北感」であった。
リィナは、アウレリアの心の波形に触れることこそしなかったが、彼女の苦悶の表情から伝わる痛みに、自身の胸元をそっと押さえていた。魔術理論という異なる世界に生きる者であっても、その根底に流れる誠実な探求心には、リィナなりの共感が静かに宿っていた。
一行は、凍りついたままのアウレリアを後にし、次なる理の揺らぎ ── 学術騎士団が待ち構える演習場へと、その影を進めていった。窓の外に広がる白磁の街並みは変わらず美しかったが、その均整の裏側で、確かな綻びが音を立てて広がり始めていることを、アレンだけが冷徹に見据え続けていた。




