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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第32章:理(ことわり)の揺らぎ

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中央図書館に漂っていた「過去の設計図」という名の沈滞した空気を引きずりながら、一行はリュミエ女王の先導により、王宮に隣接する「白亜の植物研究棟」へと足を運んでいた。そこはセレノアが誇る魔導生態学の最前線であり、バルトロメウス教授が引き起こした「魔力汚染」の残滓を浄化し、枯死に瀕した貴重な植物群を救うための、国家規模の拠点となっていた。


棟内の中央広場には、幾重にも重なる強化魔導ガラスの容器に隔離された、一株の観葉植物が置かれていた。かつては瑞々しい深緑を湛えていたであろうその葉は、いまや深淵の泥を吸い込んだかのように重く沈み、不気味な蒼紫色の燐光を帯びて小刻みに震えている。植物の周囲の大気は、肺の奥を不快にかき毟るような濁った不協和音を放ち続けていた。


「……公女王陛下。そしてアレン殿。これを見ていただきたい」


リュミエ女王が、沈痛な色を瞳に沈めてその植物を指し示した。その傍らでは、セレノアの主任研究員たちが数千行に及ぶ複雑な魔術式のホログラムパネルに囲まれ、必死に演算を繰り返している。


「バルトロメウスが遺した汚染の種は、植物の魔力循環系を根底から書き換えてしまいました。我が国の浄化理論をもってしても、この『澱み』を解きほぐすには、最適化された術式を六時間連続で投射し続けなければなりません。……それも、成功率は五割に届かないのです」


研究員の一人が、額の脂汗を拭いながら絶望的な数値を提示した。彼らにとってこの汚染は、解き方の分からない「不正解」が塗り込まれた難解なパズルそのものであった。


アレン・ヴァルグレイは、無表情のまま隔離容器へと歩み寄った。漆黒の瞳は、空中に踊る数式のグリッドを一瞥もせず、ただ植物の内部で「滞っているもの」の物理的な手触りを、感覚触手で直接捉えていた。


(……解く必要はない。ただ、流れを塞いでいる異物を、外へ押し出せばいいだけだ)


アレンにとって、目の前の現象は学術的な難問ではなかった。それは、排水溝に詰まった泥のような、極めて単純で物理的な「不具合」に過ぎない。アレンは自身の隣に控える誓導者、リィナ・フェルウェンへと視線を向け、静かに号令を送った。


「……リィナ。自分の循環リズムで、ここを『洗って』やれ」


「はい、アレン様」


リィナが静かに一歩前へ出た。彼女は魔力循環誓約を通じて伝わってくるアレンの理外の魔力圧を、自身の深層回路へと深く引き込み、光属性の奔流へと変換していく。


「な、何を……!? 構築もなしに近づくのは危険です! 汚染波が逆流しますぞ!」


研究員の制止を、リィナは穏やかな所作で受け流した。彼女は右手に握った《澄光星環アストラ・ルーセント・リング》を掲げ、隔離容器の前に立った。リィナの瞳に、守護者としての強い光が宿る。


「──理を束ね、濁りをそそぎ、光の海へ還れ」


リィナの唇から、凛とした詠唱が紡ぎ出された。刹那、《澄光星環アストラ・ルーセント・リング》の先端に、幾何学的な紋様を描く多層式の光の魔術陣が展開される。アレンから流れ込む膨大な魔力供給を背景に、その構築速度はセレノアの学者が提唱する理論値を遥かに上書きし、瞬時に完成を見た。


高純度浄化ピュリファイ


解き放たれた純白の光が、ガラス容器の内側を白濁した輝きで満たした。それはセレノアの理論が提唱する「中和」や「分解」といった微温的な介入ではない。アレンの楔であるリィナが振るったのは、理そのものを圧倒的な出力で上書きする「理外の洗浄」であった。


シュゥゥゥゥ……。


不快な不協和音が、一瞬で澄み渡った静寂へと上書きされた。植物を蝕んでいた蒼紫色の泥は、リィナの放つ圧倒的な光密度の前で霧散を許されず、強制的に純粋な魔力へと還元されていく。一秒、いや、瞬きをする間。


「……え?」


リュミエ女王の喉から、震えるような声が漏れた。


数千行の数式が必要だと言われた汚染は、跡形もなく消え去っていた。ガラス容器の中には、今や本来の鮮烈な深緑を取り戻し、瑞々しく呼吸を再開した植物が、春の陽光を喜ぶように葉を揺らしている。


「そんな……バカな……。六時間の工程が、たった一瞬で……? 浄化効率が、計算上の限界を超えている……」


研究員たちは、手元のアーク・リンクが示す「汚染濃度:零」という数値を前に、言葉を失って立ち尽くしていた。彼らが人生をかけて積み上げてきた「浄化理論」という名の城が、成熟した術者であるリィナの「無作法なまでの救済」によって、音も立てずに崩れ去った瞬間だった。


アレンは驚愕に震える女王や学者たちを一瞥もせず、役目を終えて静かに主の元へ戻ってきたリィナへと僅かに視線を走らせた。


「……あなたたちは、糸に絡まった結び目を一つずつ解こうとしていた。……俺たちは、その糸ごと新しいものに張り替えた。それだけのことだ」


アレンの極低温の独白が、静まり返った研究棟に硬質に響いた。


「理」を極めたと自負するセレノアの知識人たち。彼らの瞳に宿ったのは、奇跡への感謝ではなく、自分たちの信じてきた世界がいかに脆い土台の上に成り立っているかという、底知れぬ戦慄であった。


セリス・ヴァレンティアは、この一部始終を数歩後ろから見つめていた。彼女の青い瞳には、かつて自らも志した「浄化理論」という学問が、目の前で音もなく無力化されていく光景に対する、複雑な感情が渦巻いていた。だがそれは敗北感というより、むしろアレンの隣に立つ誓導者としての誇りへと、静かに変換されていくものであった。


「……見事ですわ、リィナ。あなたのその一撃が、セレノアの何世紀にもわたる研究を凌駕してしまいましたのね」


セリスの呟きに、リィナは戸惑いがちに首を横に振った。


「わ、私は、ただアレン様の力を通しただけです。……セレノアの方々が積み重ねてきたものは、本当に尊いものだと思います」


リィナの謙虚な言葉に、傍らに控えていたサツキ・ハートフィールドも小さく頷いた。彼女にとって、この「理論の崩壊」は武技とは無縁の出来事であったが、リィナが見せた迷いのない一撃の背後にある、誓導者としての鍛錬の重みだけは、武人としての彼女にも確かに伝わっていた。


一行は、凍りついたままの学者たちを背後に残し、さらなる不協和音の源流 ── 現代魔術の寿命を暴く魔術学院へと、その歩みを進めていった。研究棟の出口を抜ける際、アレンは背後で交わされる学者たちの動揺した囁きを、無関心のまま耳の端で聞き流していた。彼らが積み上げてきた確信という名の城壁が、たった一つの理外の光によって塵と化した現実を、これからどう受け止めていくのか。それはアレンの関知するところではなかった。ただ、次なる不協和音の予兆だけが、彼の意識の奥底で静かに、しかし確実に膨らみ続けていた。


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