↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第32章:理(ことわり)の揺らぎ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

335/343

32-3

学術の都セレニスの中心部に鎮座する、世界最大の魔術図書館『無尽蔵のことわりの書庫』。その内部は、外界の喧騒を一切拒絶した、透き通るような冷気と静寂に支配されていた。天を突くように聳える白磁の円柱群が、幾何学的な影を石床に落とし、壁一面を埋め尽くす書架には、保存処理を施された数千万冊の古書と、最新の魔導記録媒体が整然と並んでいる。


アレン・ヴァルグレイは、公女王エリシアの公式視察に随行し、音を吸い込むような長い回廊を歩んでいた。漆黒のコートが歩みに合わせて、静かな衣擦れの音を立てる。アレンの数歩先では、エリシアとリュミエ女王が、書架に眠る歴史の重みについて穏やかに言葉を交わしていた。


(……静かすぎるな)


アレンの《魔力直接操作アーケイン・マニピュレーション》は、図書館を包む魔力密度を冷徹に演算していた。ここにはトラヴァンのような「管理された凪」はない。代わりに、数千年の知性が積み重なったことで生じた、肺の奥を圧迫するような「情報の重圧」が、オゾンの匂いと共に大気に飽和している。アレンの足元から浸透した感覚触手は、図書館の基壇となる巨大な魔石炉が発する、一定で揺らぎのない鼓動を捉えていた。


「……圧倒的ですわ。ここに蓄積された知識の一つ一つが、今のわたくしたちの文明を形作っている……。魔術師として、これほどの聖域はありませんわ」


セリス・ヴァレンティアが、強化魔導ガラスの展示ケースを前に足を止めた。彼女の青い瞳には、かつて理論の極致を志した一人としての、純粋な敬意と郷愁が宿っている。セリスが指し示したのは、分厚い革装に銀の装飾が施された一冊の初版本だった。


「『基本属性の連鎖的増幅理論 ── 全集』。……アレン様、これは世界の構造を定義し、現代の魔術体系を支えてきた不変のいしずえですわ。ここに記された数式が、迷宮資源を電力へ変え、人々の生活に『光』を与えているのです」


セリスの誇らしげな解説に対し、アレンは無表情のまま、その初版本に刻まれた複雑な魔術式の幾何学模様を見つめた。アレンの瞳は、インクの跡や羊皮紙の質感を追っているのではない。彼の視界では、本自体が内包する微細な魔力流が、青白いグリッドとなって空間に浮かび上がっていた。


アレンが掌を、展示ケースのガラス面に触れるか触れないかの距離まで近づけた。


(……やはり、ズレている)


アレンの脳裏に、かつて初めて「三倍収納カバン」の魔術式を覗き込んだ時と同じ、不快な指先の痺れが走った。それは、完成された美しい絵画の中に、一滴の墨汁が混ざり込んでいるような形容しがたい「違和感」。


アレンの感覚触手は、本に記された理論が想定している「世界の拍動」と、いま自身の足裏を通じて伝わってくる「大地の実感」との間に、埋めようのない乖離かいりを聴き取っていた。


「セリス。……この本に書かれている流れ、少し……『硬すぎる』気がしないか」


アレンの声は極低温のまま、隣のセリスにだけ届く低いトーンで放たれた。


「硬い……? どういうことですの、アレン様。これは現代魔術における最高峰の、最も安定した循環式ですわ。一切の無駄がなく、完璧に調律されています」


「理屈は分からない。……だが、足元から伝わってくる大地の拍動が、この図面が想定しているものより、少しずつ『重く』なっている。……この設計図は、今の大地の揺らぎを許容していない。……無理に固定しすぎているんだ」


アレンの意識は、カザリアの草原やサハリスの砂漠、そしてガルディアの深層で感じた、世界樹の根元から響く不協和音の残響を呼び出していた。


(このまま、このガチガチに固まった設計図に頼り続ければ……いつか、どこかで『千切れる音』がする)


アレンが掌を離すと、彼の指先に残留していた静電気が、パチリと小さな火花を散らして消えた。魔術を消し、事象を力ずくで調律する能力をもってしても、大地そのものが変質していく「時代のズレ」を止めることはできない。それは、家を直すことはできても、その下が沼地に変わるのを止められない無力感に似ていた。


もし、このままズレが拡大すれば、その先に待つのは「誰かが泣くことになる結末」だ。アレンにとっての力の価値は、常にその一点にあった。


その時、前方を歩いていたエリシアが足を止め、ふわりと振り返った。彼女の右手薬指にある共鳴指輪が、図書館の柔らかな光を反射して淡く瞬く。


「アレン殿、どうかしましたか? 何か気になる蔵書でも?」


エリシアの柔らかな微笑みが、重苦しい予感に沈みかけていたアレンの意識を現実へと引き戻した。アレンは、世界のシステムが千切れる予感による指先の痺れを、無機質な沈黙の奥へと押し込んだ。 彼はゆっくりとエリシアへと向き直ると、温度を欠いた瞳の奥に、いつもの事務的な守護者としての色を戻した。


「……いえ。エリシア陛下。少し空気が乾燥しているようです。……リィナ、水の循環を少しだけ整えておけ」


「はい、アレン様」


リィナ・フェルウェンが、主の言葉の裏にある「守護者としての配慮」を察し、穏やかな所作で応じた。彼女はアレンの傍らに静かに歩み寄ると、掌に淡い水の魔力を宿し、乾いた空気にわずかな潤いを与えていく。その動作には、迷宮の重圧を退けてきた誓導者としての落ち着きと、主を気遣う一途な優しさの両方が滲んでいた。


アレンは再び任務に戻り、静かに歩み出した。背後には、セリスが「聖域」と呼んだ、美しくも危うい過去の設計図が、冷たいガラスの向こう側で沈黙を守り続けている。


サツキ・ハートフィールドは、書架の合間を縫うように歩む一行の最後尾で、周囲の死角を絶えず確認していた。彼女にとってこの図書館は、武技とは無縁の静謐な聖域であったが、その静けさの奥に潜む「知の重み」は、彼女の武人としての感覚をも微かに緊張させていた。背に負った薙刀《星凪ほしなぎ》の柄には触れず、ただ静かに呼吸を整えながら、彼女は主の背中を見つめ続けていた。


知の都セレニスが誇る、あまりにも完璧な静寂。その裏側で、世界のシステムがきしみ、音を立てて崩れようとしている不協和音を、理外の零番だけが独り、背中で聴き続けていた。


一行は学術の都が誇る偽りの安寧を後にし、次なる理の揺らぎへと、その影を進めていった。回廊を抜ける際、アレンは一度だけ振り返り、書架の奥に沈む無数の古書の背表紙を見つめた。それらが積み重ねてきた知の重みは確かに尊いものであったが、その根底に潜む「破断点」の存在を、アレンだけが誰よりも冷徹に見抜いていた。彼はその予感を胸の内に留めたまま、再び前を向き、一行と共に静かな図書館の空気を後にした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。