31-12
トラヴェリス中央議事堂を支配していた、凍りつくような沈黙がようやく解かれた。
「──以上をもちまして、第二百三十八回、世界十五か国首脳会議を閉幕いたします」
議長レイモンド・アステリオンの宣告が、重苦しくホールに響き渡った。壁面に展開されていた巨大なホログラムの条文が、砂嵐のようなノイズと共に霧散していく。アグニスの軍事権移管、そしてローレンへの行政介入。トラヴァンが提示した二つの巨大な「解決案」は、暗殺未遂という不透明な混乱と、物理的に残された偽装鎧というノイズによって、土壇場で否決された。
だが、議場に勝利の歓喜はない。十五か国の首脳たちの顔に刻まれているのは、拭いきれない相互不信と、数日間に及ぶ情報の嵐に晒され続けたことによる、底知れぬ疲労感だけであった。均一な魔導照明の下、誰の表情にも生気の色は戻らず、円卓を離れる足取りにさえ、重い澱が纏わりついているように見えた。
アレン・ヴァルグレイは、公女王エリシアが座席を立つのに合わせ、音もなくその数歩後ろへと移動した。アレンの足元から地表へと浸透した《魔力直接操作》の知覚触手は、議場から去りゆく首脳たちの魔力波長が、依然としてセイランの提示した「合理性」という名の凪に緩やかに同期し続けていることを冷徹に演算していた。
「アレン様……。あの男、こちらを見ていますわ」
セリス・ヴァレンティアが、青い瞳で演壇を鋭く射抜いた。
壇上に立つ国家統合庁長官セイラン・ヴァル=トラヴァン。彼は否決という結果を突きつけられながらも、表情一つ変えていなかった。悔しさも、怒りもない。ただ、計画の一部にわずかな計算外の事象が混入したことを、淡々と処理する計算機のような静謐さ。彼の佇まいには、敗北を敗北として認識すること自体が存在しないかのような、底知れぬ不気味さが漂っていた。
セイランはアレンたちに近づくことも、言葉を交わすこともなかった。ただ一度、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて一礼を捧げると、音もなく演壇を降り、影のように退場していった。彼の歩みに合わせ、周囲の警備ドローンの群れが、統制された編隊を組んで背後に追従していく。その光景は、まるで一匹の指揮者が無言のまま無数の駒を従えているかのような、異様な統一感を保っていた。
「……アレン様、怖いです」
リィナ・フェルウェンが、アレンの黒い袖を小さく掴んだ。彼女の《思考読解》は、議場を去っていく首脳たちの心に刻まれた、消えない「変化」を読み取っていた。
「案は否決されたのに……皆さんの心の中に、セイランさんの言葉が深く根を張っています。『規格こそが正しい』という種が、もう芽吹き始めているんです」
リィナは自身の左手薬指に嵌まった共鳴指輪を、無意識のうちに指先で強く握りしめていた。その冷たい輝きだけが、いま彼女に確かな現実の感触を与えてくれているようだった。たとえ法案が通らなくとも、トラヴァンが発信した情報の毒は、全世界のアーク・リンクを通じて数億人の意識を書き換え続けている。騎士道は危うい暴力であり、個の尊厳よりも管理が優先されるべきだという「均質化の福音」。それは、目に見えない冷たい風となって、確実に世界の輪郭を削り始めていた。
アレンは、セイランが消えていった重厚な扉を、感情を削ぎ落とした瞳で見つめ続けていた。
(……敵だ。あれは、俺たちが今まで戦ってきたものとは決定的に質の違う『悪』だ)
アザルのような私欲も、黒鋼派のような独善もない。ただ、世界を美しく平坦なシステムに作り替えようとする、一点の曇りもない善意。それこそが、いかなる《魔術消去》でも根源を掴めない、最も回避不能な断罪の刃であることを、アレンは本能的に理解していた。彼の脳裏には、これまで対峙してきた敵たちの顔が、次々と浮かんでは静かに消えていった。だが、いずれの顔も、目の前の男が纏う静謐な狂気には遠く及ばなかった。
「私も、あの男を許せません」
サツキ・ハートフィールドが、背負った《星凪》の重みを背中で感じながら、茶色の瞳に静かな闘志を宿した。
「誇りを削り、人を部品に変える風。……いつか、この刃で断ち切らねばなりませんね」
サツキの声には、これまでの武人としての静けさに加え、確かな熱の萌芽が宿っていた。それは怒りというよりも、自分が守るべきものの輪郭を、この数日間でより鮮明に見出したことへの、静かな決意であった。
「……ああ。だが、まだこの監獄を出る許可は下りていない」
アレンは極低温の声で答え、歩み出した。 議案は否決され、会議は形式上の閉幕を迎えた。だが、今夜には各国首脳が揃う「記念晩餐会」という名の、最後の外交儀礼が残されている。 情報の毒によって「世界の敵」と定義されたアレンたちにとって、それは刃を交える戦場よりも不快な、数千の視線に晒される「檻」への招待に他ならなかった。
理外の零番は、無機質な廊下を歩みながら、今夜の祝宴に渦巻くであろう不協和音を静かに演算し始めていた。廊下の窓越しに見える中庭の木々は、計算され尽くした緑を保ったまま、夕暮れの光を無感情に反射している。その光景は、まるでこの国全体が一つの巨大な舞台装置であるかのような、拭いがたい違和感をアレンの意識に刻みつけていた。エリシアの背後に控えるリィナ、セリス、サツキの足音だけが、それぞれの覚悟を秘めたまま、静かに廊下に響き続けていた。




