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暗殺未遂事件の戦慄が冷めやらぬまま再開された、世界十五か国首脳会議(WFS)の円形ホール。
そこを支配していたのは、先ほどまでの「情報の嵐」とは質の異なる、互いを深く疑い、底知れぬ悪意を恐れる冷たい沈黙の質量であった。均一な魔導照明の下、円卓を囲む首脳たちの視線は、隣に座す他国の代表へと不安げに泳ぎ、誰もが「次に罠を仕掛けるのは誰か」という本能的な恐怖に囚われていた。
演壇に立つ国家統合庁長官、セイラン・ヴァル=トラヴァンは、乱れた髪一つなく、聖者のような慈愛に満ちた微笑みを絶やさずにいた。
「──皆様。回廊での混乱は、まさに統治の欠如が生む悲劇そのものです」
セイランの声はどこまでも澄み渡り、聴く者の不安を優しく撫でるように響いた。
「ヴァルガン王。あなたの潔白を証明するためにも、そして二度とこのような『不確定な暴力』を許さないためにも。我らトラヴァンの提示する規格こそが、今この瞬間に必要な救済であるとは思いませんか?」
「……貴様ッ!」
アグニス王国のヴァルガン王が、椅子が悲鳴を上げるほどの力で拳を握りしめた。だが、その咆哮は、議場を包囲する各国の首脳たちの冷淡な視線に押し潰される。手元のアーク・リンクには、全世界から「アグニスの卑劣な闇討ち」を断罪する情報の毒液が、滝のようなログとなって流れ落ちていた。すべてはトラヴァンの筋書き通りに進んでいるように見えた。
アレン・ヴァルグレイは、公女王エリシアの座す議席の背後で、彫像のごとく動かずにその光景を観測していた。アレンの足元から議場の石床へと浸透した《魔力直接操作》の知覚触手は、議場を圧迫する魔力波長に、小さな「淀み」が生じているのを捉えていた。
(……「正解」にノイズが混じったな。現象は消せても、残された『物証』までは計算できなかったか)
その時、沈黙を守っていたガルディア公女王エリシア・ヴァルステイン・ガルディアが、ゆっくりと、しかし凛とした動作で立ち上がった。彼女の青い瞳には、情報の毒に抗うための冷徹な知性が宿っていた。
「……議長。わたくしは、この事態を以て議案を可決することに強く反対いたしますわ」
エリシアの声が、凍りついた空気を鮮やかに震わせた。
「暗殺者の装備は、あまりにアグニスを想起させるように作り込まれすぎていました。サツキが回収したあの偽装鎧の破片には、不自然なほどに純化された魔力署名の残滓がある。混乱に乗じて一国の主権を縛ることは、国際社会の正義に反します」
エリシアの言葉に呼応するように、ノルディア王国のレオニール王も頷いた。
「拙速な決定は、次なる火種を生む。我々は、恐怖によって法を変えるべきではない」
サツキ・ハートフィールドが回廊で「実動作」として放った一撃が、暗殺者たちの偽装を物理的に剥ぎ取り、その「物証」を議場に残したこと。それが、セイランの完璧な論理に「疑念」という致命的な亀裂を生んでいた。控室で待機していたサツキ自身は、この場に姿を見せていなかったが、彼女が回廊に残した鎧の破片こそが、いま議場を動かす確かな錘となっていた。
なかでも、ローレン海洋王国のアクアリオ王の胸中には、引き裂かれるような葛藤の天秤が揺れていた。
アグニス騎士団による自国への不法な越境介入は、まったくもって遺憾極まる主権侵害であり、アグニスを処罰すべく、アクアリオ王は当初、この軍事指揮権移管案(議題一)に「賛成」の票を投じる予定であった。しかし、次に控えるのは自国の行政介入案(議題二)である。ここでアグニスを切り捨てて賛成を押せば、激怒したアグニスは確実に議題二でローレンを陥れる「賛成」に回るに違いない。
「ここでアグニスを刺せば、次の審議で我が国も確実に刺し返され、自滅するのではないか」 ──
その睨み合いのジレンマの中で深く悩んでいた王の理性を、最後の瞬間に繋ぎ止めたのが、提示された「偽装鎧の破片」という動かぬ物理的事実であった。
「アグニスをおとしめ、その軍を取り上げた後、次に同じ手口で主権を毟り取られるのは、我々ローレンではないのか」 ──
それは、アグニスを救うためではない。自国をハメ殺そうとするトラヴァンの巨大な罠を看破し、ローレンという国家の矜持と主権を死守するための、血を吐くような本能的防衛であった。アクアリオ王は、土壇場で当初の予定を完全に覆し、アグニスの軍事指揮権移管へ「反対」を投じる決意を固めた。
この不信の伝染は、アルヴェリアやアークレストなど、トラヴァンの周到な事前工作によって「賛成」へと傾きかけていた日和見の国々の首脳陣をも、雪崩のように動かしていった。今日、同盟による他国の主権剥奪を認めれば、明日は我が身が同じ罠にかかる。押し寄せる「規格」という名の檻のあまりの息苦しさに、首脳たちの指先は明確な拒絶へと舵を切った。
議長レイモンド・アステリオンが、重苦しい表情で採決を宣言した。議場中央に巨大なホログラムパネルが展開され、十五か国の意思が別々に、冷徹な光の署名となって表示されていく。
【議題一:アグニス王国軍事指揮権の移管案】
賛成:六か国(トラヴァン共和国、フェルシア農業国、ルミナス聖王国、ゼルハルト王国、バルムート王国、カザリア王国)
反対:七か国(アグニス王国、アルヴェリア王国、アークレスト王国、ノルディア王国、ガルディア公国、ローレン海洋王国、サハリス砂漠王国)
棄権:二か国(ヴァルゼン帝国、セレノア王国)
「──、賛成六、反対七。棄権を除く有効投票数十三。本案は可決に必要な過半数の七票に達せず、否決いたします」
議長レイモンドの、沈痛ながらも引き締まった聲音が議場に響き渡る。
事前の票読みにおいて、トラヴァンが「国際秩序の維持」という名目のもとに完璧な根回しを終え、確実に過半数の賛成を確信していたはずの方程式は、一音の余韻もなく粉砕された。
続いて表示された二つ目の青白い署名群は、議題一での「不信の伝染」を証明するように、さらに圧倒的な拒絶の波形を描き出していた。
【議題二:ローレン海洋王国への行政介入案】
賛成:二か国(トラヴァン共和国、ルミナス聖王国)
反対:十か国(アグニス王国、フェルシア農業国、アルヴェリア王国、ゼルハルト王国、アークレスト王国、ノルディア王国、ガルディア公国、カザリア王国、ローレン海洋王国、サハリス砂漠王国)
棄権:三か国(ヴァルゼン帝国、セレノア王国、バルムート王国)
「──、賛成二、反対十。本案は否決いたします」
自国のマリス族差別という後ろめたさを人質に取られながらも、ローレン王アクアリオにとって、自国への直接の行政介入など、最初から「反対」以外の目盛りは存在しなかった。同盟の本拠地を抱えるがゆえに露骨な内政干渉への賛否を避けたバルムートが「棄権」に逃れ、他の首脳たちもまた、トラヴァンが示した規格という名の檻のあまりの息苦しさに最後の一線で明確な「反対」を並べた結果であった。
「……否決、ですわね」
セリス・ヴァレンティアが、微かに安堵の息を漏らした。強張らせていた肩の力を僅かに抜き、公女王エリシアが勝ち取った土壇場での拒絶の結果を、静かな、しかし峻烈な勝利の眼差しで見届けた。
アレンは感情を削ぎ落とした瞳で、演壇で静かに引き下がるセイランの背中を見つめていた。
「……アレン様。セイラン長官、悔しがっている様子がありません。彼の心の波形には……敗北感ではなく、『次の計算』への移行だけが刻まれています」
隣に立つリィナの声は、戦慄に掠れていた。アレンの袖を握るリィナの指先が、微かに震えている。
案は否決された。だが、世界を均そうとする均質化の福音は、より深く、より静かに各国の首脳たちの理性を侵食し始めていた。
アレンは公女王エリシアが立ち上がるのに合わせ、静かに歩み寄った。
「……ああ。奴にとっては、これも過程の一つに過ぎないんだろう」
政治の円卓での第一ラウンドは終わった。だが、背後で閉まる重厚な扉の音は、嵐の終わりではなく、さらなる情報の毒が世界を静かに、しかし確実に塗り潰していく激動の幕開けを告げているようであった。




