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世界十五か国首脳会議(WFS)、一時休憩。議場を支配していた「情報の嵐」が物理的な静寂へと取って代わられた中央議事堂の回廊は、肺の奥を冷やすような無機質な森の香気に満ちていた。壁面に埋め込まれた魔導配線の青い脈動だけが、生き物の鼓動のように規則正しいリズムを刻んでいる。均一な照明の下、回廊の石床は磨き抜かれた鏡面のように光を反射し、そこに映る人影さえも、どこか現実味を欠いて見えた。
公女王エリシアが滞在する控室の入り口。アレン・ヴァルグレイは一切の微動を排して佇んでいた。彼の足元から議事堂の構造体へと深く浸透した《魔力直接操作》の知覚触手は、避難するように散っていく各国の首脳たちや、配置された警備ドローンの魔力波長を網羅的に演算していた。
(……「凪」の裏側で、不自然な粒子が剥落しているな)
アレンの感覚が、数百メートル先の吹き抜け回廊の一角に、周囲の空間から完全に浮き上がった「認知の空白」を捉えた。それは高度な認知フィルターによって視覚と魔力感知を強引にバイパスされた、人為的な死角。アザルがかつて用いた手法に近いが、その質感はより洗練され、冷徹なまでの「管理」の意思を孕んでいる。アレンは自身の内側で、その空白の輪郭を静かに描き出すように、意識の触手を伸ばし続けていた。
控室の外、吹き抜けの回廊。サツキ・ハートフィールドは、気配を周囲の壁の陰影に溶け込ませながら、音もなく歩を進めていた。彼女の茶色の瞳は、不自然に空気の流れが澱んでいる回廊の角を射抜いている。魔術的な感知に頼るのではない。武人としての生存本能が、静まり返った回廊の先に、人の誇りを踏みにじる「冷たい風」の正体を既に嗅ぎ取っていた。
(……アグニスの騎士ではありません。この歩法、重心の移動に「熱」がない)
回廊の先から歩み寄ってくるのは、アグニス王国騎士団の重装鎧を寸分違わず模した一団であった。炎紋を刻んだ紅蓮の甲冑、揺れる深紅のマント。外見上は、ヴァルガン王の弁明を裏切って実力行使に出た「暴走する武人」そのものだ。だが、サツキはその歩みがアグニスの武人が誇る勇壮な踏み込みではなく、ただ効率的に目標を屠るための、刺客特有の無機質な滑走であることを看破していた。彼らの足音には、鎧の重量に見合うだけの軋みがなく、まるで滑るように石床を進む様は、生身の武人が纏う「熱」とはあまりにかけ離れていた。
彼らの視線の先には、ローレン海洋王国の特使ラグナ・ティレオンの一行があった。議論の停滞に疲弊し、肩を落として歩くラグナ。その後ろを固めるローレン護衛隊が、回廊の角を曲がろうとしたその刹那、不自然な「空白」が弾けた。
「──マリス族の汚辱、ここで雪がせてもらう!」
偽装されたアグニス騎士たちが、一斉に抜剣した。認知フィルターが剥がれ、回廊に鋼の擦れる硬質な音が響き渡る。抜かれた剣はアグニスの炎を纏っているように見えたが、その魔力波形はトラヴァンのアルゴリズムによって計算された、ただの「模造の熱」に過ぎない。
「曲者だ! 特使を守れ!」
ローレン護衛隊が即座に応戦するが、狭い回廊での奇襲に防戦一方となる。三叉槍を構える間もなく、暗殺者の刃がラグナの喉元へと迫る。ラグナ自身は咄嗟に身を庇うことしかできず、その顔には恐怖よりも先に、自分の護衛が犠牲になるかもしれないという焦燥が浮かんでいた。
「──そこまでです」
閃光のごとき踏み込み。サツキが、ローレン護衛隊と暗殺者の間に割って入った。
背後から引き抜かれたアダマンタイト製の薙刀──《星凪》。アレンを中心とした「三拍子の鼓動」を介して、理外の魔力がサツキの深層回路へと穏やかに流れ込んだ。蒼い燐光を放つ刃が空気を切り裂き、銀色の円弧を描いて暗殺者の剣を真っ向から迎え撃つ。
キィィィィィィィィィィン!!
鼓膜を焼くような硬質な衝突音。アダマンタイトの絶対的な硬度が、偽りの炎を纏った暗殺者の剣を、その「芯」から物理的に粉砕した。火花が散り、砕け散った鋼の破片が石床を転がる。破片の一つがラグナの足元近くまで飛んで、彼はようやく自分がまだ無事であることを実感したように、大きく息を呑んだ。
「……なっ、何者だ! 邪魔をするな!」
「名誉を騙る不届き者。……私の目の前で、不純な刃を振るえると思わないでください」
サツキの瞳には、冷徹な武人としての輝きが宿っていた。彼女は魔術式による破壊をあえて介さず、純粋な武技を繰り出す。《星凪》の石突が先頭の男の顎を叩き上げ、そのまま流れるような旋回から二撃目を放つ。
武技──《月影・一閃》。
月光のような鋭い弧が回廊の全域を制圧し、暗殺者たちの偽装鎧を紙細工のように無残に切り裂いた。アレンの魔力循環を受けて絶対的な真空の衣を纏った刃は、肉体を傷つけず、ただ衝撃のみを甲冑の内部へと浸透させる。暗殺者たちは声を上げる間もなく、糸の切れた人形のように頽れていった。
ガラン、と重苦しい鎧の倒れる音が、静まり返った回廊に反響する。倒れ伏した鎧の隙間から、微かに漏れる魔力の残滓が、まるで正体を暴かれた偽りの証のように淡く光っていた。
控室の入り口。アレンは一歩も動かず、エリシアの座るソファの周囲一点を護ることに徹していたが、彼の知覚触手はすべての顛末を演算し終えていた。
(……始まったか。現象は消せても、残された『物証』という毒までは消せないか)
「アレン様……。サツキが、誰かと戦っています」
リィナ・フェルウェンが、不安げにアレンを見上げた。彼女の指先は、無意識のうちに自身の左手薬指の共鳴指輪へと伸び、その冷たさに縋るように触れていた。アレンは沈黙を貫いたまま、閉ざされた扉を静かに見つめていた。回廊には既に、駆けつけたトラヴァンの警備隊の軍靴の響きが満ちている。
「……アグニス騎士団の装備だと?」
現場に駆けつけたローレンの護衛官が、転がる暗殺者の「偽りの紅蓮」を見て、激越な殺意を露わにした。
「アグニスの連中……、議案が通らぬと見て、特使の暗殺を仕掛けたのか……!」
それは、セイランが描いた最悪の筋書き通りの誤認であった。サツキが命を救い、証拠となる鎧を物理的に残したことさえも、トラヴァンの情報の檻は「アグニスの罪」を補強する材料へと変換していく。護衛官の憎悪に満ちた叫びは、既に確定した事実であるかのように回廊に響き渡り、その場に居合わせた者たちの認識を、瞬く間に一つの「正解」へと収束させていった。
アレンは感情を削ぎ落とした瞳で、壁の向こう側で熟成され始めた不協和音を観測していた。現象を救済に変えても、世界が定義する物語はアグニスを「卑劣な暗殺者」へと塗りつぶしていく。理外の零番は、静寂の中でその不気味な凪の深淵を、冷徹に見据え続けていた。
彼の脳裏には、これまで幾度も繰り返されてきた同じ構図が浮かんでいた。善意で救った者たちが、次の瞬間には敵意の対象へと変質する。彼が振るう力そのものは何一つ変わらないというのに、それを取り巻く「物語」だけが、まるで生き物のように姿を変えていく。アレンは自身の掌をわずかに開き、そこにまだ残る戦闘の余韻を確かめるように、静かに指を握り込んだ。控室の扉の向こうでは、リィナが不安げにアレンの袖にそっと触れ、セリスは既に次なる展開を予期するように、レイピア《煌光穿》の柄へと視線を落としていた。嵐はまだ、終わってはいなかった。




