30-8
ローレン王宮最上階、「真理の円卓」。
窓外に広がるコバルトブルーの海は、嵐が去った後も不自然な凪を保っている。だが、円卓を囲む者たちの手元にあるアーク・リンクは、全世界のサーバーから放たれた呪詛のログを絶え間なく受信し、不快な高周波の震動を室内へと伝え続けていた。朝の光が差し込み始めた広間には、勝利の余韻も、もはや欠片も残されていなかった。
「アレン殿……。申し訳ない、では済まぬことは分かっている。だが……」
国王アクアリオ・ローレンが、沈痛な面持ちで声を絞り出した。その掌は、円卓の縁を白くなるほどに押さえつけている。彼の琥珀色の瞳には、救世主を「国際犯罪者」へと仕立て上げたトラヴァンのアルゴリズムに対する激越な憤怒と、一国の王として真実を叫ぶことさえ許されない無力感が沈んでいた。豪快な笑い声で武勇伝を語っていたあの夜の彼の面影は、いまやどこにも見当たらなかった。
「私は、今すぐにでも全世界へ向けて声明を出しましょう。貴殿が我らを救い、一滴の血も流さずに事態を収束させた真の英雄であると……!」
「お止めください、アクアリオ陛下」
アレン・ヴァルグレイの極低温の声が、広間の空気を物理的な質量で沈み込ませた。彼は漆黒の瞳で、窓外の水平線を冷徹に見据えたまま動かない。その静けさは、諦観ではなく、既に幾度も同じ計算を重ねた末に導き出された、揺るぎない結論に基づくものであった。
「人の考えは消せません。……今の陛下の言葉は、トラヴァンの設計図においては単なる『隠蔽者の共謀』という名のノイズとして処理されます。陛下が声を上げれば上げるほど、ローレン海洋王国までもが『世界の敵』として規格化され、この国の未来が削り取られることになる」
「……っ、そんな不条理が、許されるというのか!」
傍らで唇を噛み締めていたエルシアン王子が、悲鳴に近い声を上げた。かつて「規格化された正義」に酔いしれていた王子の瞳には、いまや自らの愚かさが招いた代償の重さが、拭いきれぬ影となって張り付いている。彼の手には、あの夜自らの手で公表した黒鋼の破片の感触が、まだ生々しく残っているかのように、指先が微かに震えていた。
アレンは視線を王へと戻すと、断罪にも似た冷徹な事実を突きつけた。
「理屈は通じません。……俺たちは、あの日陛下たちが願った『誰も泣かずに済む結末』を選び取った。それだけで十分です。……これ以上の火種を抱え込みたくなければ、俺たちを速やかにこの国から放逐してください。それが、王としての合理的な判断です」
広間に、耳が痛くなるほどの沈静が降りた。リィナ・フェルウェンの波長観測は、王子の内側に渦巻く罪悪感と、王の内に沈殿する屈辱を余すところなく掬い上げていたが、それを言葉にする術を彼女は持っていなかった。彼女はただ、自身の胸元に手を当て、込み上げる痛みを静かに堪えていた。セリス・ヴァレンティアの青色の瞳には、一国の主権さえも情報のヤスリで平坦化しようとするトラヴァンのやり口に対する、底冷えするような憤怒が宿っていた。彼女の指先は、既に何度目かも分からぬほど、レイピアの飾緒を無意識に撫でていた。サツキ・ハートフィールドは無言のまま、既に主の背後を守るように直立している。彼女の茶色の瞳は、王宮の出口へと続く廊下の死角を、既に武人の直感で射抜いていた。
「……セリス、準備をしろ」
「……承知いたしましたわ。アレン様」
セリスが、温度を欠いた所作で頷いた。彼女の周囲に漂っていた憤怒の陽炎が、静かに、しかし確実に、次なる行動への冷静さへと変わっていく。
三時間後。ローレンポートの軍用飛行場の滑走路には、ガルディア公国軍の最新鋭魔導軍用機が、その銀翼を朝日に輝かせて待機していた。魔導エンジンの低い唸りが、不自然に静まり返った滑走路に重低音を響かせ、周囲の空気を震わせている。
タラップの脇、到着時に敷かれた真紅の絨毯は、潮風に煽られて端が捲れ上がっていた。見送りに現れたのは、アクアリオ王とエルシアン王子の二人だけ。かつてアレンを迎えた歓迎の喧騒も、兵士たちの敬礼もない。遠巻きに見守る警備兵たちの視線には、かつての救世主への感謝よりも、アーク・リンクを通じて世界に定義された「独裁者」への、正体の知れない恐怖が色濃く混じっていた。誰一人として彼らに近づこうとはせず、ただ遠巻きに、値踏みするような視線だけを送り続けていた。
「……往くぞ」
アレンは王たちに別れの言葉をかけることもなく、漆黒のコートを翻してタラップへと足を踏み出した。彼が一歩進むたび、足元から地表へと浸透した魔力圧が、滑走路の結界回路を「未定義のノイズ」で激しく軋ませていく。その振動は、まるで彼の存在そのものが、この世界の均衡を強引に歪めているかのような不気味な響きを伴っていた。
「アレン殿! ……わたくしは、わたくしの目で見た真実を、決して捨てはしない!」
背後から響いたアクアリオ王の咆哮。それは潮風にかき消されそうになりながらも、王としての最後の矜持を絞り出すような、震える力を帯びていた。だが、アレンはその声を振り返ることなく、無機質なハッチの奥へと消えていった。
最新鋭魔導軍用機のハッチが、重く冷たい金属音を立てて閉ざされる。離陸の衝撃が機体を揺らし、コバルトブルーの海が窓外を猛烈な速度で遠ざかっていく。滑走路に立ち尽くすアクアリオ王とエルシアン王子の姿が、みるみるうちに小さくなり、やがて雲の切れ間に飲み込まれて見えなくなった。
機内を支配していたのは、作戦を完遂した安堵ではなく、全世界を敵に回した者たちだけが分かち合える、峻烈なまでの「静寂」であった。アレンは一人がけの革張りシートに深く腰掛け、窓外の雲海を見つめていた。その瞳には、救世主から犯罪者へと転落した自身の運命への動揺など、微塵も存在しなかった。ただ、その奥底には、これから直面するであろう更なる不条理への、冷徹な覚悟だけが静かに沈んでいた。
(……次は、ガルディアか)
アレンは、自身の内側に沈殿する、理を無へと還す静かなる力に意識を向けた。手を使わずとも事象をねじ伏せるその不条理な権能は、いま、漆黒の瞳の奥で深淵のような輝きを増している。情報の毒に酔いしれる世界を、力ずくで調律するための「断罪の円卓」への幕は、いま、最悪の不協和音と共に上がろうとしていた。
隣の座席では、リィナが窓の外を静かに見つめながら、自身の左手薬指に嵌まった共鳴指輪をそっと撫でていた。セリスは腕を組んだまま、目を閉じて次なる戦場への思考を巡らせている。サツキは膝の上に《星凪》を横たえ、その刀身に映る自分自身の顔を、しばらくの間、無言で見つめ続けていた。誰も言葉を発さないまま、機体はただ静かに、しかし確実に、西大陸の空へと針路を取っていった。
機体は高度を一万メートルまで上げ、西大陸の中央──不信と波紋の渦巻くガルディア公国へと、その影を滑らせていった。




