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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第30章:偽りの潮流

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30-7

商船『アクア・ルミナス号』の甲板を支配していたのは、耳を打つ潮騒と、重なり合うようにくずおれた人々の静かな寝息だけであった。先ほどまでの爆炎と怒号、そして「正義」の名の下に交わされていた不協和音は、アレン・ヴァルグレイが放った《衝撃制御インパクト・リミット・全方位拡散》によって、強引かつ完璧な「沈黙」へと上書きされていた。夜明け前の空はようやくその端を薄紫に染め始めていたが、甲板を包む静けさは、その柔らかな光とは対照的な、冷え切った空気を纏っていた。


アレンは漆黒のコートの襟を正し、無機質な瞳で惨状を見下ろした。彼の足元には、同胞を救うという純粋な善意に突き動かされ、結果として同盟国への侵略者となりかけたアグニスの若き騎士たちが横たわっている。その隣には、自国の法を守ろうとして詰み(チェックメイト)の状態に追い込まれたローレン海兵。そして、奪われた尊厳を取り戻そうと、トラヴァンの毒をあおったマリス族の若者たち。


誰一人として傷ついてはいない。骨の一本も折れず、ただ深い眠りに落ちているだけ。それは理外の零番が示した、最大限の「慈悲」の形であった。甲板の板張りに規則正しく並ぶ彼らの寝姿は、まるで戦の後に訪れる嘘のような平穏を描いた、一枚の静謐な絵画のようでもあった。


だが、その沈黙を嘲笑うように、上空を旋回する数機の偵察ドローンが紅い監視孔を明滅させた。獲物を見つけた猛禽のようなその視線は、この「不殺の鎮圧」という事実を、トラヴァン共和国のアルゴリズムというフィルターを通して、全世界へと生中継し続けていた。無機質な機体の羽音だけが、静まり返った甲板の上に淡く響いていた。


一同の手元で、アーク・リンクが同時に震動した。


「……アレン様、放送が……」


リィナ・フェルウェンが、自身の胸元を強く握りしめたまま、震える手でホログラムウィンドウを空中に展開した。映し出されたのは、再びトラヴァン公式通信社の報道スタジオであった。彼女の淡い青色の瞳には、これから流れる内容への予感めいた恐れが、既に色濃く滲んでいた。


『──緊急特別続報です。碧き潮流に潜んでいた「最悪の不条理」が、ついにその牙を剥きました。ご覧ください。治安維持という名目で介入した魔軌士No.0、アレン・ヴァルグレイ氏による、両国軍への一方的な武力蹂躙の瞬間です』


画面には、アレンが静かに掌を広げた瞬間の映像が、不気味な重低音のSEと共にスロー再生されていた。本来は不殺の衝撃であるはずの波紋には、視覚的な恐怖を煽る赤黒いエフェクトが合成され、人々が倒れ込む光景は「魂を奪う死の魔術」であるかのように演出されている。倒れていく者たちの表情までもが、あたかも苦悶に歪んでいるかのように、意図的な陰影が施されていた。


『……アレン氏は、主権国家であるローレン海洋王国とアグニス王国の正当な軍事行動を、個人の暴力によって完全に沈黙させました。これは、国家の主権という国際社会の「規格スタンダード」に対する、明白な宣戦布告に他なりません』


キャスターの声は、感情を排した無機質な「正論」を紡ぎ続ける。その声音には迷いも躊躇いもなく、まるで既に決定された判決を粛々と読み上げているかのようであった。


『特務官No.0。救世主の仮面を被ったこの男は、一国の内政を、軍を、そして民の意志を、自分の気に食わないという理由だけで力ずくで書き換える「情報の独裁者」です。世界は、この個人の暴走をこれ以上放置してはならない……』


「何ですの……。何ですの、この身勝手な解釈はっ……!」


セリス・ヴァレンティアはあまりの不条理に奥歯を噛み締め、剥き出しの殺意を隠そうともしなかった。彼女の周囲の大気が不気味な高周波を立てて軋み、足元の石床に細かな亀裂が走り始めていた。青色の瞳には、救済を「略奪」へ、慈悲を「蹂躙」へとすり替える情報の暴力に対する、峻烈な憤怒が宿っていた。彼女の指先はレイピア《煌光穿グロリアス・ライト・ピアース》の柄を握りしめ、その柄頭に刻まれた紋様が、震える指の熱を吸い込むように白く浮かび上がって見えた。


「アレン様は……陛下や王子からの正式な依頼を受けて、誰も殺さないために動かれましたわ! それを『独裁者』だなんて、理論があまりにも破綻していますわ!」


セリスの叫びは、しかし無慈悲に流れ落ちる匿名アカウントの罵倒にかき消されていく。アーク・リンクのログには、全世界から放たれた「毒」が殺到していた。


『No.0を即刻拘束しろ!』


『一人の人間に国を弄ばせるな!』


『救世主なんて嘘だ。彼は魔術師の面汚しだ!』


アレンはモニターから視線を外すと、海の向こうに霞むローレン王宮の方角を温度を欠いた瞳で見つめた。そこには、自分たちに救いを求めたアクアリオ王やエルシアン王子がいるはずだ。だが、彼らが今さら「アレンは依頼で動いた」と叫んだところで、全世界に定義された「独裁者アレン」という強固な規格を覆すことは、もはや不可能に近い。夜明け前の薄闇の向こうに霞む王宮の輪郭は、まるで届かぬ約束のように遠く感じられた。


「……アレン様、この風……冷たすぎます」


リィナがアレンのコートの袖にそっと触れた。彼女は、この海域を満たし始めた、あのヴァルガン王が警告していた「凪」の感触──正義という名の情報の毒が、肺の奥をじわりと圧迫しているのを感じ取っていた。彼女の指先は、コートの生地越しにも伝わるアレンの体温を確かめるように、そっと力を込めていた。


アレンは自身の両手を静かに見つめた。魔術を消し、事象を修正し、誰もが泣かずに済む結末を選び取ってきた力。だが、いま世界は、その力そのものを「災厄の根源」として定義し終えたのだ。


「……なるほど。これが『情報の檻』の完成形か」


アレンは自嘲気味に、鼻で笑うような微かな音を立てた。


「俺が人を救えば救うほど、トラヴァンのアルゴリズムは俺を『世界の敵』に書き換えていく。……現象マジックは消せても、この『物語ノイズ』という呪いは消せない」


アグニス王ヴァルガンが漏らした「術式なき侵食」。その真意が、いま最悪の形で結実していた。人々を操っているのは術式ではない。アーク・リンクから流れる「正解」という名の情報の毒。彼らは自らの意志で、アレン・ヴァルグレイという異質を排除すべき共通の敵として飲み込んだのである。


その時、水平線の彼方からローレン海軍の第二陣──王直属の治安維持艦隊が近づいてくるのが見えた。アレンの《衝撃制御インパクト・リミット》によって無力化されたアグニス騎士団の突撃艦、そして海賊たちに占拠されていた『アクア・ルミナス号』。それらに対し、ローレン軍の兵士たちが接岸を開始する。夜明けの薄明かりを浴びた艦隊の艦影が、次第にその輪郭を鮮明にしながら、静まり返った甲板へと近づいてきた。


糸の切れた人形のように眠り続けるアグニスの騎士たちや、三叉槍を手放したマリス族の若者たちは、次々とローレン軍の魔力拘束具を嵌められ、連行されていった。それは一滴の血も流れない、あまりにも静かで、あまりにも一方的な「法による収束」であった。拘束された者たちの中には、目を覚まし始めた者もいたが、彼らはただ茫然と自分の手足を見下ろすばかりで、抵抗する気力すら残されていないようだった。


「……往くぞ」


サツキ・ハートフィールドは無言で《星凪ほしなぎ》を背負い直すと、主の死角を埋めるように前方に立った。彼女の茶色の瞳には、世界中から向けられる呪詛への動揺など微塵もなかった。彼女にとっての「真実」は、世界が定義する規格などではなく、いま隣に立つ主の呼吸と、アレンが守り抜いた不殺の戦場にこそある。彼女は倒れ伏す若者たちの姿を一瞥し、その誰もが確かな体温を保って眠っていることを、静かに確認していた。


「御意。……何処へでも、お供いたします」


アレンは捕縛されていく同胞たちを一瞥すると、碧き潮流の上へと再び足を踏み出した。一切の動作を伴わず、ただ意識の指向性のみで海面の密度を固定し、透明な道を生成する。彼の足取りに一切の迷いはなく、その背中は、押し寄せる世界の悪意を全て背負いながらも、決して折れることのない一本の芯を感じさせた。


救世主としての栄光は、今この瞬間、完遂された罠によって永久に剥ぎ取られた。後に残されたのは、二つの国家の軍を蹂躙し、国際秩序を脅かす「史上最悪の犯罪者」という汚名だけである。


碧き海の上に広がる不気味な凪は、次なる戦場──大陸全土を巻き込む、音のない戦争の幕開けを告げていた。夜明けの光がようやく水平線から差し込み始め、海面を薄紅に染めていったが、その美しさすらも、いまの四人には遠く、白々しいものにしか映らなかった。


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