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ローレン王宮「真理の円卓」を包み込んでいるのは、もはや至福の余韻などではない。大型ホログラムモニターが映し出す碧き海では、十四時間もの間、時が止まったかのような膠着状態が続いていた。窓の外に広がる海は、夜明け前の淡い群青に染まりながらも、その静けさとは裏腹に、画面の中では絶え間ない緊張が渦を巻いていた。
画面の中央に鎮座するのは、白亜の大型商船『アクア・ルミナス号』。かつては王国の繁栄を象徴したその船は、いまや「自由マリス解放軍」を自称する過激派の手に落ち、彼らの掲げた蒼い三叉槍の旗が、潮風に不吉に翻っている。
「……十四時間だ。我が国の海軍が船を包囲して、それだけの時が過ぎた」
国王アクアリオ・ローレンが、肺の奥から絞り出すような重苦しい声で呟いた。王の拳は円卓を白くなるほど握りしめ、その瞳には海王としての威厳を上書きするほどの疲弊が沈んでいる。潮に鍛えられたはずのその大柄な体躯が、いまはひどく縮こまって見えた。
状況は、完璧な「詰み(チェックメイト)」であった。ローレン海軍の旗艦群は商船を射程内に収めているが、一斉射撃を行えば、船上のマリス族を「虐殺」することになる。それはトラヴァン共和国の放つ情報の毒液に、決定的な「血の真実」を与えることに他ならない。一方で、彼らが船上から全世界へ「ローレンの暴政」を生中継し続けるのを、指をくわえて見ていることしかできない。過激派たちはこの膠着を逆手に取り、アクア・ルミナス号を「抑圧に抗う聖域」として演出し続けていた。
そこへ、最悪の不協和音が割り込んだ。
「陛下! アグニス騎士団の高速魔導突撃艦が、境界線を越えました! 十数分後には、アクア・ルミナス号の防衛圏内に突入します!」
侍従の悲鳴に近い報告。モニターには、武の国アグニスの紋章を掲げ、全速力で波を切る突撃艦の姿が映し出された。十四時間の航海を経て到着したアグニスの騎士たちの瞳には、トラヴァンの編集映像によって刷り込まれた「虐殺を待つ同胞と、それを見下ろす暴君」という偽りの構図が、動かぬ正解として焼き付いている。
「アグニスが来れば、もう止まらん。彼らは純粋な善意から、我が軍に剣を向けるだろう……」
アクアリオ王は、アレン・ヴァルグレイの前へと歩み寄った。かつて一国の平定を成し遂げた理外の零番。その無機質な瞳を、王は縋るような、そして一人の父としての無様な眼差しで見つめた。円卓を挟んで向き合う二人の間に、しばし重い沈黙が流れた。
「アレン殿。……これは王としての、そして民を、友を愛する一人の男としての請願だ。……誰も殺させないでくれ」
王の大きな手が、円卓に置かれたアレンの手元近くで震えている。その指先は、かつて豪快な笑い声とともに武勇伝を語っていた時とは別人のように、力なく揺れていた。
「我が国の軍では、血を流さずにこの狂乱を止めることはできぬ。だが、君の『理外の力』なら……。魔術では消せぬこの情報の嵐から、彼らを、この国の理へ引き戻せるはずだ。……頼む、アレン・ヴァルグレイ。ローレン海洋王国として、君に治安維持活動への公式介入を依頼する」
アレンは感情を削ぎ落とした瞳で、アクアリオ王の覚悟を観測していた。彼の視線は、王の震える指先から、円卓の上で明滅を続けるホログラムパネルへと一度移り、それから再び王の顔へと戻った。円卓の傍らで控えるリィナ・フェルウェンは、アレンから伝わってくる峻烈な魔力圧の昂ぶりを感じ取り、自身の呼吸を整えながら、いつでも彼を支えられるよう静かに傍らへと寄り添った。彼女の淡い青色の瞳には、この依頼が孕む危うさへの不安と、それでもなお主の判断を信じる決意とが、綯い交ぜになって浮かんでいた。
セリス・ヴァレンティアはアレンの魔力循環に深く意識を沈め、自身の深層回路が鋭利な加速を開始するのを見据えていた。彼女はレイピア《煌光穿》の飾緒に指先を添え、その冷たい感触を確かめながら、来るべき戦場への集中を静かに研ぎ澄ませていた。その傍らではサツキ・ハートフィールドが、音もなく重心を落とし、次なる一歩へ向けて全身の細胞を研ぎ澄ませていた。彼女の茶色の瞳には、迷いのない静かな覚悟だけが宿っている。
「……受諾した。美食の口直しだ。……汚名ごと、まとめて処理してやる」
アレン達四人は寝室として用意されていた一室に入った。アレンが右手を掲げ、漆黒の魔力粒子が陽炎となって立ち昇る。彼が転移できるのは、一度その身を置いたことのある既知の空間のみ。乱戦の只中にある商船の甲板へ直接跳ぶことは叶わない。
アレンは、クラーケンを鎮圧したあの巨大防潮堤──「蒼龍の背」の感触を、魔力の残響として呼び出した。指先に伝わる冷たい記憶の断片が、彼の脳裏で座標という確かな形を結んでいく。
《空間転移》
パチン、と乾いた指の音が広間に反響した瞬間、視界を支配していた王宮の部屋の壁が、砕け散るように消失した。
次に一行を襲ったのは、冷たい潮風と、大気に飽和した重苦しい魔力の不協和音であった。そこは、波飛沫が石床を濡らす「蒼龍の背」の最先端。夜明け前の薄闇の中、石畳はまだ昨夜の戦闘の余韻を留めたまま、湿り気を帯びて冷え切っていた。
「……着きましたね。ここからは、あの船を目指します」
リィナが即座に《三重魔導護膜》を全員に定着させ、防御の出力を整えた。膜が触れる潮風と微かに共鳴し、薄い燐光を纏う。水平線の彼方では、ローレン海軍、アグニス騎士団、そしてマリス族の高速艇が、いまにも激突せんとする火花のような魔力反応を散らしている。その光景は、遠目には夜空の残り火のように儚く見えたが、そこに込められた殺意の質量は、誰の目にも明らかであった。
「あちらですわ、アレン様。……正義に酔いしれる者たちへ、本物の理不尽を突きつけて差し上げましょう」
セリスの言葉に、アレンは無機質な瞳で海面を見据えた。彼の漆黒のコートが、防潮堤を吹き抜ける潮風を受けて静かに波打っていた。
「サツキ、前を空けろ。……疾るぞ」
アレンの足元から溢れ出した漆黒の魔力が、海面の密度を強引に定義し直し、透明な「滑走路」を生成した。一行は防潮堤を飛び降り、物理法則をあざ笑うような速度で碧き潮流の上を滑走し始めた。アレンの《魔力直接操作》によって固定された水面は、軍靴の音一つ立てさせず、一行を戦場の中心──『アクア・ルミナス号』へと最短距離で運んでいった。四人の背後には、静かに晴れゆく夜明けの空と、まだ収まらぬ潮騒だけが残されていた。




