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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第30章:偽りの潮流

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30-4

武の国アグニスの王都アグナード。かつてアレン・ヴァルグレイがその圧倒的な武を見せつけ、騎士たちの魂に消えない刻印を残したこの場所は、いま、かつての熱狂とは質の異なる不気味な「熱」に浮かされていた。


練兵場に響くのは、剣を交える硬質な金属音ではない。休息の合間、あるいは鍛錬の最中に、騎士たちが一斉に手元のアーク・リンクへと視線を落とす、衣擦れの音と押し殺したような私語であった。石畳の上で組まれていた素振りの列は、いつしか崩れ、誰もが手のひらの端末を覗き込む沈黙の群像へと変わっていた。


彼らの瞳を青白く照らしているのは、トラヴァン共和国の公式通信社が全世界へ中継し続けている「ローレンの惨状」であった。


『──誇り高きマリスの戦士たちが、不当な実験の犠牲となった。王族は保身のために彼らを肉壁とし、特務官No.0は真実を葬るためにその指先を振るった』


画面の中で繰り返されるのは、クラーケン・レガリアの触手に打ち据えられ、碧き海へと消えていくマリス族の戦士たちの姿だ。そして、後方の安全な旗艦から冷徹に戦況を見下ろすアクアリオ王の横顔。さらに映像は、アレン・ヴァルグレイが指先を弾き、証拠のデバイスを無情に粉砕する瞬間を、ドラマチックなスローモーションで強調していた。


「……俺たちが信じた英雄は、王族の汚れ仕事を請け負う掃除屋だったのか」


一人の若き騎士が、アーク・リンクを握る指に力を込めた。かつて天覧試合でアレンが示した「理」への敬意は、情報の毒液によって一瞬で「裏切られた者の憎悪」へと書き換えられていた。彼の周囲では、稽古着姿の同輩たちが同じ画面を覗き込み、拳を握りしめる者、唇を噛む者、あるいはただ黙って端末の光を睨み続ける者と、それぞれの形で怒りを胸の内で育てていた。


彼らの纏う魔力に、呪詛や精神操作の術式は塵一つとして存在しない。だが、彼らはアーク・リンクから流れる「正義」に魂を同調させ、自発的に暴走を開始しようとしていた。それは誰かに強いられた狂気ではなく、彼ら自身が選び取った、あまりにも純粋な使命感の発露であった。


その光景を、王宮のバルコニーから見下ろす一人の男がいた。アグニス国王、ヴァルガン・アグニス。かつてアレンに「風が変わる」と警告した老王は、自身の誇りであった騎士団が、音もなく「規格スタンダード」という名の檻に閉じ込められていく様を、逃れようのない無力感と共に見つめていた。夜風が彼の濃い赤銅色の髪をわずかに揺らし、その深紅の瞳には、かつて剣を交えた息子や部下たちの顔が、次々と練兵場の映像に重なって浮かんでは消えていった。


『奴らは私の命令を聞いているが、その瞳は私を見ていない』


かつてアレンへ送った通信の言葉が、いま目の前の現実となって結実していた。


「陛下、止めることはできません。……若手たちは既に、ローレンへの『人道的介入』を正義だと信じ込んでいます」


側近の言葉に、ヴァルガンは深く、沈痛な面持ちで目を閉じた。騎士団長レオスが不在の中、実戦部隊の指揮権を持つ副団長や分団長といった中堅幹部たちが、若手たちの熱意(情報の毒)に呼応し、王の許可なき独断での発進を準備していた。バルコニーの下、王宮の外壁を囲む石畳では、既に武具を身に着けた騎士たちが列をなし、松明の炎に照らされたその横顔には、迷いの色など微塵も見当たらなかった。


数時間後。アグナードの軍用港では、数隻の高速魔導突撃艦が、碧き潮流の渦巻くローレン海域へと向けて咆哮を上げた。艦橋に立つのは、軍務において中佐から大佐クラスの権限を持つ、騎士団の有力な指揮官たちであった。彼らの纏う甲冑は炎紋の意匠で彩られ、松明の灯りを弾いて赤く燃え上がるように見えた。


「マリスの同胞を、腐った王族とNo.0の手から救い出す。……これが我らアグニスの、真の武の意志だ!」


彼らの掲げる大義名分には、一点の曇りもなかった。トラヴァンのアルゴリズムによって加工された「正義」は、彼らの純粋な善意を燃料にして、引き返せぬ戦火へと変質していた。アグニスからローレンまでは、魔導エンジンの全開加速を以てしても十時間から十四時間は要する長距離だが、彼らの殺意は既にその距離を飛び越えていた。甲板に整列した若い騎士たちの中には、かつて天覧闘技場でアレンの剣技に打ちのめされ、その圧倒的な武に膝を突いた者たちの姿もあった。彼らの瞳に宿るのは、あの日の敗北の記憶ではなく、いまや歪められた「裏切り」への怒りだけであった。


突撃艦の周囲を、トラヴァン製と思われる数機の偵察ドローンが、祝福を授けるかのように静かに旋回していた。その紅い監視孔は、若き騎士たちの「暴発」というドラマチックな光景を、次なる情報の弾丸として全世界へ生中継し始めていたのである。夜空に浮かぶその無機質な機影は、月明かりを弾くこともなく、ただ静かに戦火の胎動を記録し続けていた。


同じ頃。ローレン王宮「真理の円卓」にて、アレン・ヴァルグレイは大型ホログラムモニターに映し出されたアグニス軍の映像を、無機質な瞳で見つめていた。


モニターの中では、ドローンが捉えた騎士たちの決然とした表情や、一点の曇りもない瞳が、映画のような扇情的な構図でアップになっていた。アレンはその「絵」としての完成度の高さに、鼻で笑うような微かな衣擦れの音を立てた。


(……なるほど。術式まじゅつで縛るまでもない。この『物語』という規格を与えれば、人は自ら刃を研ぐというわけか)


アレンの脳裏には、先ほど見た騎士たちの迷いのない動作が焼き付いていた。それは外部からの魔術的な強制による、操り人形のような不自然な動きではない。純粋な善意が狂熱へと昇華された、自発的な意志の輝きであった。彼は自身の掌を一度だけ見つめ、そこにまだ残る海中デバイスの冷たい感触を思い出していた。あの粉砕の一撃が、今こうしてまた別の顔をした敵意となって押し寄せてくることに、彼は感情を露わにすることなく、ただ静かにその不条理を演算し続けていた。


「……なぎが、嵐になって押し寄せてくるな。……アグニスの王が言っていた通り、最悪の風だ」


リィナ・フェルウェンは、画面の中に渦巻く『一点の曇りもない善意の狂熱』に戦慄を覚え、自身の左手薬指に嵌まった共鳴指輪の冷たさを確かめるように指先を震わせた。彼女の淡い青色の瞳には、遠くアグナードの練兵場から伝わってくる若い騎士たちの高揚と、それが誰かの手によって注意深く育てられた毒であるという事実の両方が、痛みとなって映り込んでいた。


目の前で流れる「演出された正義」が、かつて自分たちを称賛した人々を、そしてアグニスの友人たちを、取り返しのつかない決断へと駆り立てている事実は、肌を刺すような重苦しい空気となって伝わってきた。彼女は思わず自身の胸元を強く押さえ、込み上げる痛みを堪えるように、静かに息を吐いた。


理外の零番たちの前に立ち塞がろうとしているのは、悪意ある怪物ではない。情報の檻に閉じ込められ、自らを救世主と信じて疑わない「正しい人々」の群れであった。その絶望的な不協和音を前に、アレンは黒いコートの襟を正し、静かに、しかし冷酷な決意と共に次なる戦場──碧き潮流の果てを見据えた。


窓の外では、遠く水平線の彼方から、二隻、三隻と続くアグニスの突撃艦の航跡が、静かに、しかし確実に近づきつつあった。


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