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世界樹の森を飛び出してから二ヶ月。
魔術生命体ルミナは、潮の香りが色濃く漂う西の大陸の港町へと辿り着いていた。
迷路のように入り組んだ路地裏。石造りの壁面は海風に侵食されて黒ずみ、軒先には色褪せた洗濯物が重たげに垂れ下がっている。
「あ、……ぅ……。こっち、……でしょうか?」
ルミナは空中に展開した半透明の地図ホログラムと、目の前の路地を交互に見比べた。
彼女の脳内にはセラフィナから継承された「世界地図の全データ」が完璧に格納されている。
しかし、地図上の記号を現実の風景へと変換する「経験」が圧倒的に不足していた。彼女は首を傾げ、あろうことか上下逆さまに地図を持ち直すと、自信なさげにパタパタと光の翼を羽ばたかせた。
その時、ルミナの感覚回路が背後に「熱源」と「動体反応」を感知した。
(……っ!? 敵性、反応……、ですか?)
知識ベースが即座に検索結果を弾き出す。『肉食獣、狩猟本能、奇襲』。
バッ、と振り返った先にいたのは、一匹の野良猫だった。
鋭い金色の瞳が、空中を舞う光り輝く「不思議な羽虫」を捉え、皿のように見開かれる。
猫は低い姿勢で身を翻すと、石床を力強く蹴り、ルミナ目掛けて跳躍した。
「ひゃあぁっ!? こ、こないでくださいーっ!」
ルミナはパニック状態で魔力推進を最大まで引き上げた。
理論上、彼女の飛行速度は音速にさえ達する。だが、知識としての回避機動アルゴリズムはあっても、それを制御する身体的感覚が赤子同然の彼女には、出力の調整が不可能だった。
「あわわ、あわわわっ!」
急加速した小さな身体は、曲がり角の制御に失敗し、漆喰の壁へと一直線に突っ込んだ。
ゴンッ、という硬質な音と共に、ルミナは壁面に激突。
「あいたたた……」と涙目で目を回しながら、制御を失った身体は洗濯物の中に突っ込み、木箱をなぎ倒し、路地裏に盛大な音を響かせた。
伝説の魔術師の最高傑作であるはずの妖精は、一匹の猫を相手に、文字通り支離滅裂な大失態を演じていた。
不意に、鉛色の空から大粒の雨が降り注ぎ始めた。港町特有の、暴力的なまでの通り雨だ。
雨粒の一つ一つが、二十センチのルミナにとっては重い弾丸のような衝撃となって身体を叩く。
彼女は慌てて近くの民家の軒下へと逃げ込み、震える羽を畳んでうずくまった。
ふと足元を見ると、先ほどまで自分を執拗に追い回していた猫がいた。
猫はルミナを襲う気力さえ失ったのか、軒下の一角で、冷たい雨に打たれて小さく震えていた。泥にまみれた毛並みが、体温を奪われていく。
ルミナの胸の奥で、データベースにはない「痛み」が走った。
それは知識ではなく、創造主セラフィナから直接譲り受けた、万物への深い慈愛の残滓。
「……寒そう、ですね。あたたかく、しましょう」
ルミナは小さな掌を、猫の濡れた背中へとそっと差し出した。
術式を構築するまでもない。《魔力直接操作》の萌芽とも言える純粋な意志によって、彼女の掌から柔らかな金色の熱が解き放たれる。
濡れた猫の毛並みが一瞬で乾き、温かな魔力の波動が、冷え切った動物の肉体を優しく包み込んでいった。
猫は驚いたように目を見開いたが、やがてルミナが敵ではないことを理解したのか、心地よさそうに喉を鳴らした。
「なー……」
猫はお礼を言うように、ルミナの指先にザラついた舌を這わせ、頭を擦り寄せる。
初めて触れる、自分以外の生命の重みと温もり。
ルミナはその感触に、生後一ヶ月で別れた母――セラフィナに抱かれていた、遠い記憶の断片を重ねていた。
「ふふ……。あなたも、誰かを守りたいのですね」
雨宿りをしながら、ルミナは静かに独り言を漏らした。
この広い世界で、大切な誰かのために戦い、誰かを想う者は、自分だけではないのだ。
今はまだ不器用で、でんぐり返しばかりの未熟な妖精。けれど、その瞳には、主アレンを守り抜くという、何者にも屈しない「希望」の光が宿っていた。
雨が上がり、夕陽が石畳を黄金色に染める頃。
ルミナは猫に一度だけ手を振ると、小さな使命を胸に、再び赤紫に染まる空へと高く舞い上がった。
アレンへと続く「欠片」を見つけ出すための、あまりに危なっかしくて壮大な大冒険は、まだ始まったばかりだった。




