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アレンがこの世界に二度目の召喚を受ける一年前。女神歴二一九五年、一月一日。
アルヴェリア王国の西側に鎮座し、空を覆い尽くす巨木――世界樹の最深層。そこは、現代魔術の礎を築いた伝説の魔術師セラフィナ・エルフェリスが遺した、時の流れさえも凍結させたような絶対の聖域だった。
一六九五年という、気が遠くなるような永い沈黙。
その中心で、結晶化した魔力の檻に包まれていた一つの「核」が、深海から泡が昇るように微かな脈動を始めた。
パチリ、と空間を裂くような音が微かに響く。
青白い燐光が核から溢れ出し、幾何学的な紋様を描きながら闇を塗りつぶしていく。魔術生命体ルミナが、再起動した瞬間だった。
「……あ、……ぅ……?」
二十センチメートルほどの小さな身体が、重力を否定するようにふわりと浮遊する。
その姿は、透き通るような白銀の髪をなびかせ、光の粒子で編み上げられたドレスを纏う、指先ほどの妖精そのものだった。彼女の瞳は淡い光を湛え、瞬きをするたびに金色の残滓が雪のように舞い落ちる。
『ルミナ……聞こえますか……』
魂の深奥、あるいは回路の深層から響くのは、慈愛に満ちた創造主、セラフィナ・エルフェリスの思念。
それは単なる音声データではない。一七〇〇年前、母とも呼ぶべき彼女が、死の間際に全存在を賭けて刻み込んだ「未来への導線」だった。
『いつか来るアレンの未来を支える“波長一致者”を……探しなさい』
ルミナの小さな脳内では、その瞬間、歴史上のいかなる天才をも凌駕する膨大な「遺産」が展開されていた。
古代魔術の深層解析、多重次元の幾何学定義、エルディアの全大陸を記述した地政学データ。セラフィナが遺した全知識が、光速の演算をもって彼女の意識を形作っていく。
しかし、その圧倒的な「知」の質量とは裏腹に、彼女の「心」はあまりにもあどけなく、未熟だった。
セラフィナが生後わずか一か月で永眠したため、ルミナには身体的な経験値も、育まれるべき感情の記憶も存在しない。
「天才の頭脳」を持ちながら、精神は「生まれたての赤子」という、歪で尊い存在。それが彼女の本質だった。
「えう……。あう、……せ、かい……?」
漏れ出た声は、鈴を転がすように幼く響く。
ルミナはよちよちと不慣れな手つきで空中を泳ぎ、冷たい世界樹の壁面にそっと透明な指先を触れた。
その刹那、壁を流れる魔力伝導ラインの情報が彼女の中に流れ込む。
(魔力流、安定。……でも、少しだけ……『濁り』があります?) [Source 37, 19]
知識としての解析は完璧だった。だが、それが世界にとって何を意味するのかを、今の彼女は情緒として理解できない。ただ、主であるアレンのために、その異常を記録に留めることしかできなかった。
(アレン様の……ために……っ)
主を守り、導く。一七〇〇年前から託された、彼女の存在意義。
ルミナは一生懸命に光の翼を羽ばたかせた。だが、知識としての回避機動や飛行理論はあっても、それを制御する身体能力が追いつかない。
「ひゃあぁっ!?」
勢いよく飛び出そうとして、自身の魔力推進に振り回され、空中で盛大にでんぐり返しをする。小さな頭を壁にぶつけ、「あいたたた……」と涙目で目を回すその姿は、伝説の魔術師の最高傑作とは到底思えないほどに「おっちょこちょい」だった。
聖域を包んでいた古代魔術の結界が、鍵が開かれるように静かに解除されていく。
ルミナは何度も姿勢を立て直し、ふらふらとした千鳥足のような飛行で、出口へと向かった。
一歩、世界樹の深淵を飛び出した瞬間。
彼女を待ち受けていたのは、凍てつくような冬の突風だった。
「ふえぇ……っ! つ、冷たい……ですぅ!」
初めて肌に触れる外界の「感覚」。
知識データにあった「摂氏マイナス二度、北西の風」という記号が、身体を突き刺すような「痛み」と「驚き」として、初めてルミナの経験に刻み込まれた。
突風に煽られ、木の根に激突しそうになりながらも、彼女は必死に翼を動かした。
見上げた空には、凍てつくような星々が瞬いている。かつてセラフィナが観測し、その運行を定義した星辰の輝き。
「……あ。世界って、こんなに綺麗なんですね……」
自身の消滅を知りながらも、ルミナは満開の笑顔を見せた。
主アレンが守るべきこの世界の美しさを、その幼い感性に刻み込む。
一柱の小さな妖精が、世界を救うための「欠片」を探し出す、あまりに危なっかしくて壮大な大冒険が、今ここから始まった。




