29-11
海中から帰還したアレン・ヴァルグレイは、濡れた漆黒のコートを翻し、傍らに待機していたセリス・ヴァレンティアへと、拾い上げた黒鋼の破片を手渡した。防潮堤の石床にはまだ潮の水たまりが幾筋も残り、月光を受けて銀色に光っていた。セリスは無言でそれを受け取ると、即座にアーク・リンクを起動させ、数秒の超高速スキャンを実行した。彼女の指先が空中の演算パネルを滑るたびに、青白い光の粒子が細かく明滅した。
「……アレン様、解析結果が出ましたわ。このチップ、基本構成こそセレノアの理論に基づいておりますが、その核となる深層回路が、不自然な『規格』によって強制的に上書きされていますわ。……救済を装い、魔獣を狂乱させるためだけに設計された、悪意の定規ですわね」
セリスの報告を受け、アレンは無機質な瞳で破片を見つめ直した。それから彼はセリスから再び証拠を受け取ると、ゆっくりとした足取りで前方へと歩み寄った。濡れたブーツが石床に規則正しい足音を刻み、その一歩一歩が、これから告げる断罪の重みを予告しているかのようであった。
そこには、小型艇から降り、砕かれたコンクリートの破片が散らばる石床に膝を突くエルシアン王子の姿があった。ラグナ・ティレオンが沈痛な面持ちでその背後に控えている。王子の礼装は潮風と海水に濡れそぼち、肩から滴る雫が石床に小さな染みを広げていた。王子の手は小刻みに震え、かつて「救済」を夢見たその瞳には、自分の引き起こした惨状への逃れようのない戦慄が張り付いていた。
「……なぜだ。私は、ただマリスの民を救いたかっただけだ。あの学者は言っていた……システムがあれば、平等な平和が訪れると……」
エルシアンが絞り出すように漏らした言葉は、誰に届くこともなく虚空へと消えた。潮風が彼の乱れた髪を撫で、遠く海の彼方では、静けさを取り戻した波が緩やかな音を立てて寄せては返していた。アレンは無機質な瞳で王子の項垂れた頭を見下ろした。そして、無造作に右手を突き出し、掌にある「証拠」を王子の目の前へと放り出した。
硬質な金属音が、不自然に凪いだ海面に乾いて響く。
「……ッ、これは……!?」
エルシアンが弾かれたように顔を上げた。その瞳が、石床に転がるデバイスの残骸を捉えた瞬間、王子の表情から血の気が一気に失われた。そこには、海水に蝕まれながらも、彼が数時間前に「救済の鍵」と信じて海へ投じたあのチップの、無残な成れの果てが転がっていた。焦げた回路の断面が、月光の下で鈍く光っている。
「なぜ……なぜ貴殿がこれを持って……。これは、セレノアが提供した最新の誘導チップ……海を管理し、平和をもたらすための……」
王子の声が、激しい動意と共に震える。彼は未だ、自分が被害者であると信じて疑っていなかった。だが、アレンの極低温の視線が、その甘い幻想を容赦なく切り裂いた。
「管理、だと? ……王子。あんたが『救済』と呼んで海に沈めたその毒こそが、深海四千メートルからあの魔獣を釣り上げた『針』の正体だ」
「……なっ!? バカな、そんなはずは……! 私は、ただマリスの民を野蛮な労働から救いたいと……ケイン殿はそう言っていた……!」
王子の瞳に、底知れぬ戦慄が張り付く。自分が良かれと思って下した決断が、多くの同胞を死の淵に追いやり、艦隊を壊滅させたという真実。その重みに、王子の思考は音を立てて瓦裂しようとしていた。彼の視線は石床の破片と、アレンの冷たい瞳との間を、何度も行き来していた。
その時、アレンの傍らに寄り添っていたリィナ・フェルウェンが、静かに一歩前へ出た。彼女の淡い青色の瞳が、王子の精神波形を真っ直ぐに射抜く。潮風に揺れる銀髪が、彼女の頬に一筋かかった。
《思考読解》──。
リィナの網膜に、王子の内側から溢れ出す記憶の断片が、濁った奔流となって流れ込んできた。
「……アレン様。この方は、本当に騙されていたのです」
リィナの声は、悲痛な響きを湛えていた。彼女が読み取ったのは、卑劣な策略ではなく、あまりにも純粋で、それゆえに危うい「善意」の残骸であった。
「ケインという男が……『規格こそが救済だ』と囁き、王子の混血としての焦燥に付け込んだのです。……王子は、自分の血を恥じる必要がなくなるという甘言に縋り、誰も泣かずに済む世界を夢見て、あのチップを沈めました。……悪意は、どこにもありません」
リィナの報告を聴き、アレンは自身の蔦状の紋様が刻まれた胸元を静かに押さえた。指先に伝わるのは、熱を奪われた大地の冷たい震動。潮騒の音だけが、しばしその場を満たしていた。
「……そうか。悪意がない、か。それが一番質が悪いな」
アレンは再び王子へと歩み寄り、その肩を物理的な重圧となって叩くような視線を向けた。冷徹な教育者の如き断罪。潮風が二人の間を吹き抜け、遠くで海鳥が一声、鋭く鳴いた。
「救済、管理、平等……。随分と安上がりな言葉に魂を売ったものだな、王子。……あんたが海に沈めたのは技術ではない。自分の魂で選ぶことを放棄した、責任という名の重石だ」
アレンの声が、膝を突く王子の耳元で硬質に響く。
「他人が決めた『規格』という定規に縋れば、自分が正しくなったような錯覚に陥る。だが、その定規そのものが狂っていた時、あんたにはそれを正す術がない。……理を理解せず、ただ結果だけを欲した報いが、あの大立ち回りを演じた魔獣であり、今も海に沈んでいる無数の残骸だ」
「私は……私は……」
「あんたが『野蛮な不効率』と切り捨てようとしたマリスの槍こそが、最後の一線であんたの命を繋ぎ止めた。……自分の足で立たぬ正義など、ただの空論だ。あんたの求めた平等の正体は、民をシステムの部品として並べ、彼らが流した血を『誤差』として処理する、最も不平等な傲慢そのものだよ」
アレンの言葉に、エルシアン王子は深く項垂れ、嗚咽を漏らした。彼の肩が小刻みに震え、石床に涙のしずくが静かに落ちていった。彼を支えていた「偽りの正解」は今、理外の零番による冷徹な調律によって、粉々に粉砕されたのである。
アレンは温度を欠いた瞳のまま、その破片を拾い上げ、王子の震える掌の上へと無造作に載せた。金属の冷たさが、王子の手のひらに染み込んでいくようだった。
「……持っていけ。これはこの国の問題だ。理外の俺たちがこれを奪う道理はない」
王子とラグナが驚愕の表情でアレンを見上げた。ラグナの濃い青色の瞳には、驚きと同時に、何か確かなものへの理解が滲み始めていた。
「この破片には、セレノアの技術を汚そうとした真の悪意のログが刻まれている。……これを使って、自分の国が犯した過ちと、その裏にある真実を、あんた自身の言葉で民に語れ。……他人の定規ではなく、自分の魂でな」
アレンは踵を返すと、漆黒のコートを翻して歩き出した。濡れたコートの裾から水滴が石床へと落ち、彼の足取りに合わせて規則正しいリズムを刻んだ。サツキ・ハートフィールドは無言のまま、共に戦ったラグナの三叉槍に武人としての敬意を一瞥に込め、主の後に続いた。彼女の視線がラグナと一瞬だけ交わり、互いに小さく頷き合った。セリス・ヴァレンティアもまた、レイピアの飾緒を指先で弾き、情報の毒を洗い流すような鋭い視線を海面の彼方へと向けた。
「アレン殿……、往かれるのですか?」
ラグナの問いに、アレンは振り返ることなく、極低温の声で応じた。
「……いや。この不愉快な風の正体が判明するまで、美食の口直しは終わらない。……王宮に戻るぞ。公式な解析結果が出るまで、俺たちはここで『観測』を続けさせてもらう」
朝日が水平線から昇り、ローレンポートの海を黄金色に染め上げていく。波間に漂っていた戦闘の残骸が、朝の光の中で静かにその輪郭を晒していた。それはかつて王子が夢見た偽りの黄金ではなく、多くの血と悔恨を飲み込んだ、あまりにも厳かな一日の始まりであった。防潮堤に立つアレンたちの影が、昇りゆく朝日を受けて長く伸び、石床の上に静かに横たわっていた。エルシアンは震える手で真実の破片を握りしめたまま、その場から動くことができず、遠ざかっていくアレンたちの背中をただ見つめ続けていた。ラグナがそっとその肩に手を置き、二人は言葉もないまま、朝焼けに染まる海を共に見つめていた。アレンたちは、震える手で真実の破片を握りしめる王子を置き去りにし、騒乱の余韻が冷めやらぬ王宮へと戻っていった。




