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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第29章:蒼穹の澱(よどみ)

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29-10

ローレンポートの海は、いまや沸騰する魔力の坩堝るつぼと化していた。深海四千メートルの主、守護獣『クラーケン・レガリア』が放つ咆哮は、物理的な音波を超え、大気に飽和した魔力を震わせて巨大防潮堤「蒼龍の背」を激しく叩いている。夜空を覆う二つの月は、荒れ狂う波濤と、そこに踊る漆黒の触手を無機質に照らし出していた。潮飛沫が風に乗って防潮堤の上空まで舞い上がり、月光を弾いて無数の細かな光の粒となって降り注いでいる。


「っ……、これ以上は、一歩も通しません!」


最前線の波打ち際。サツキ・ハートフィールドは、強固な防潮堤の石床を深く踏みしめ、手にした《星凪ほしなぎ》を旋回させた。彼女の視界には、山脈のごとき太さを持つ触手が、意志を持つ鞭となって防壁を圧し潰さんと振り下ろされる様が映っている。石床の継ぎ目に爪先を食い込ませ、重心を最後の一歩まで沈めながら、サツキはアレンとの「三拍子の鼓動」によって過給された全身の細胞を駆動させ、重力と水の抵抗を置き去りにする速度で地を蹴った。


キィィィィィィィィィィン!!


真空の衣を纏った《星凪ほしなぎ》の蒼い一閃が、迫りくる触手の先端を物理的に両断した。切断面からは魔力の火花が散り、激痛に悶えるクラーケンの咆哮が海鳴りとなって響き渡る。斬り落とされた触手の断片が防潮堤の傍らへ落下し、石床を大きく揺らしながら海へと転がり落ちていった。だが、魔獣の質量はあまりにも巨大だ。一本を退けても、なお十数本の触手が、物理法則をあざ笑うような連動で防潮堤へと迫る。サツキの額を汗が伝い、彼女は息を整える間もなく次なる標的へと視線を移した。


「逃がしませんわ! 《多重雷撃マルチ・ライトニング》!」


その頭上。後方の指揮所から飛び出したセリス・ヴァレンティアが、レイピア《煌光穿グロリアス・ライト・ピアース》の飾緒を鮮やかに弾いた。彼女の周囲に展開された無数の術式陣から、高密度の蒼白い電撃が幾条もの槍となって放たれる。それらは荒れ狂う海面を走り、防波堤へ肉薄していた触手群へ次々と着弾した。


バリィィィィィィィィッ!!


高電圧の奔流がクラーケンの神経系を直撃し、巨大な触手を強引に硬直させる。セリスが放ったのは、単なる破壊の雷ではない。敵の動きを封じ、その魔力波形を一時的に「固定」するための、精密な電撃拘束であった。彼女の指先は術式陣の一つ一つを丁寧に調整し、雷撃の落下点を寸分違わずに狙い定めていた。触手の動きが止まり、海中に潜む魔獣の「核」へと続く道が、一瞬だけ無防備に晒される。


アレン・ヴァルグレイは、その空白の瞬間を逃さなかった。彼は防潮堤の先端に立ち、極低温の瞳で荒れ狂う潮流の深淵を射抜いた。漆黒のコートの裾が潮風に激しく煽られ、彼の周囲だけ、時が止まったかのような静けさが漂っていた。アレンの《魔力直接操作アーケイン・マニピュレーション》は、セリスの雷撃によって炙り出された「不協和音」の座標を、既に演算データとして捉えている。


(……規格化された狂乱。このことわりを汚す一滴を、消去する)


アレンが右手の指先を、虚空へと静かに触れさせた。


パチン。


乾いた指の音が戦場を通り抜けた刹那、物理的な距離を無視して「事象の崩壊」が起きた。


魔術消去ディスペル・アーツ》──。


対象はクラーケンの体内ではない。防潮堤の付け根から二百メートルほど後方、「静止の波止場」の海底深くに沈むデバイスへ施されていた、過負荷誘発用の術式言語。それが根源からその定義を抹消され、透明な塵となって消滅した。同時に、魔獣の神経系を遠隔で掌握していた不浄な共鳴の糸が断たれ、クラーケンの体内に定着していた擬似的な「第二核」が内側から音もなく霧散していく。魔獣を不自然に縛り付けていた強制的な凪が消失し、その瞳から狂乱の赤光が失われた。巨躯を包んでいた蒼紫色の脈動が、まるで潮が引くように急速に色を薄めていった。


グ、オォォ……。


クラーケン・レガリアは、己を弄んでいた楔が砕かれたことを悟ったかのように、一度だけ深淵へ向けて静かな海鳴りのような音を響かせると、巨大な渦と共に碧き深海へと帰っていった。渦の中心が緩やかに閉じていくと、海面は再び月光を映す鏡のような静けさを取り戻し始める。後に残されたのは、不自然に凪いだ海面と、呆然と立ち尽くすサツキたちの姿だけだった。焼け焦げた甲板の破片や、砕けた触手の残骸が、波間にゆっくりと漂っていた。


「……終わりましたの?」


セリスがレイピアを収め、肩で息をしながら問いかける。彼女の胸元はまだ激しく上下しており、指先には術式を連発した疲労の震えが微かに残っていた。サツキは防潮堤の先端から遥か遠く、波に揺れるエルシアン王子の小型艇と、その傍らで奮闘していたラグナ・ティレオンの姿を視界に収め、小さく頷いた。


「はい。……ですが、まだ『証拠』が残っています」


アレンは二人の言葉を聞き流し、無機質な瞳で黒い海を見据えたまま、一歩を水面へと踏み出した。周囲ではリィナが心配そうに視線を送っているが、アレンは独り、漆黒のコートを翻して海中へと沈んでいく。


ドォン!!


海中へ突入した瞬間、アレンは《魔力直接操作アーケイン・マニピュレーション》を起動させた。彼は自身の周囲にある「水の密度」そのものを魔力によって物理的に固定し、強引に空間を定義し直したのである。押し寄せる蒼い質量は、アレンの見えない意志に阻まれ、彼の周囲には地上と変わらぬ「空気層」を保ったドーム状の空間が維持された。外側では水圧が唸りを上げて渦を巻いていたが、その内側には、不思議なほどの静寂だけが横たわっていた。


アレンは深海の闇へと、音もなく降下していった。海中では、先ほどまで死闘を繰り広げていた余波が、細かい気泡の雲となって漂っている。無数の泡が彼の視界を横切り、月明かりの残滓を淡く反射させながら、ゆっくりと水面へと昇っていった。彼はかつて三十階層以上の深層で見せたのと同じ、世界の理をあざ笑うような「理外の潜水」で、魔獣が去った後の海域を淡々と進んでいった。


水深三百メートル。海底の砂が微かに舞い上がる暗闇の中、アレンの指先が一つの「異物」を捉えた。


それは、先ほどの《魔術消去ディスペル・アーツ》によって魔術回路を消去され、自壊したデバイスであった。アレンは周囲の水の壁を押し退けたまま、物理的にその歪んだ黒鋼色の破片を拾い上げた。指先に伝わるのは、冷たい金属の質感と、まだ僅かに残る不自然な魔力の余熱。表面には海水に蝕まれた無数の細かな亀裂が走り、内部の回路が完全に沈黙していることを物語っていた。


数分後。海面が大きく盛り上がり、アレンが独り、防波堤の上へと帰還した。濡れた漆黒のコートから滴る水が石床を叩き、規則正しい音を立てていた。


「アレン様、無事でしたのね!」


駆け寄るセリスとサツキ。アレンは濡れた漆黒のコートを乱すこともなく、拾い上げたばかりの「証拠」を仲間たちの前で掌に載せた。


「……これを見ろ。これが、この嵐の正体だ」


歪んだ破片の表面。そこには海水に蝕まれながらも、はっきりと一つの紋章が刻印されていた。


「これは……セレニス魔導生態学院。……わたくしたちの友好国、セレノア王国の刻印ですわ」


セリスの声には、底冷えするような戦慄が混じっていた。学術国家としての誇りを汚すような、狂信的な術式の痕跡。それが、友好国の技術的過失を装って仕掛けられていた事実に、一行の間に重苦しい沈黙が落ちた。彼女は破片を凝視したまま、しばらく言葉を失っていた。


「……セリス。この残骸を解析しろ。誰がこの『規格ルール』を書き、誰がセレノアの名を汚そうとしたのか、その指紋をすべて洗い出すぞ」


理外の零番が下した、冷徹なる号令。碧き潮流の下に隠された「救済」という名の欺瞞を暴くための戦いは、いま、より深く、より不透明な政治の深淵へとその舞台を移そうとしていた。防潮堤の彼方では、静けさを取り戻した海が、何事もなかったかのように穏やかな波を寄せては返していたが、そこに漂う不気味な平穏こそが、まだ何も終わっていないことを、四人に静かに告げているようだった。


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