表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第29章:蒼穹の澱(よどみ)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

305/322

29-9

ローレンポートの沖合三キロメートル。鏡のように静まり返っていた海面が、突如として内側から爆発した。


数万トンの海水が夜空へと噴き上がり、二つの月の光を遮るほどの巨大な山となってそそり立つ。しぶきの一粒一粒が銀と蒼の光を弾き、まるで夜空そのものが砕け散ったかのような幻惑を、その場に居合わせた全ての者へ叩きつけた。その飛沫の奥底から姿を現したのは、深海四千メートルの主――守護獣級魔獣『クラーケン・レガリア』であった。漆黒の濡れた皮膚は不気味な燐光を帯び、山脈のごとき太さを持つ無数の触手が、意志を持つ鞭となって海面を叩きつける。その一撃ごとに大気が震え、港湾都市を飲み込まんとせんばかりの巨大な引き波が押し寄せた。防潮堤に立つ者たちの足元さえ、遠く伝わる振動に小刻みに揺れているのが分かるほどの質量であった。


「……全艦、撃てッ! システムの正当性を証明するのだ!」


海軍旗艦のブリッジで、エルシアン王子が叫んだ。彼の瞳には、かつての迷いや慈愛の色はなく、どこか機械の部品のような、無機質で平坦な「正義」が宿っている。声を張り上げるその姿は、王子としての気高さよりも、追い詰められた者の悲鳴に近い響きを帯びていた。


王子の号令と共に、防潮堤と軍艦に配備された数百門の魔導砲が一斉に咆哮を上げた。夜闇を切り裂いて放たれたのは、高密度の火属性と雷属性の魔力弾である。それらは美しい光の尾を引いてクラーケンへと殺到し、その巨躯に次々と着弾しては、オレンジ色の爆炎と蒼白い火花を散らした。


ズガァァァァァン!! ズドォォォォォン!!


絶え間なく響く着弾音。本来ならば一国の艦隊を沈めるに足りる圧倒的な火力。だが、爆炎が潮風に流された後に現れたのは、傷一つ負っていない魔獣の姿であった。クラーケンの周囲には、王子が沈めたチップから放たれる不自然な『凪』の波形に魔獣の魔力系統が過剰反応――拒絶反応を起こし、自衛のために無意識に放出した高密度の生命魔力膜が展開されていた。着弾のたびに膜の表面が波紋のように揺らめき、しかしその輪郭は決して崩れることがない。


「……馬鹿な。計算が合わない」


エルシアンが、アーク・リンクに映し出されるエラーログを凝視し、指先を震わせた。


「我が国の最新の魔導計算によれば、この出力で魔獣の細胞は崩壊するはずだ。……なぜだ。なぜシステム通りに『平和』が訪れない!」


王子の焦燥を嘲笑うかのように、クラーケンが咆哮を上げた。それは物理的な音波を超え、聴く者の魔力回路を直接揺さぶる「深淵の不協和音」であった。艦上の兵士たちの何人かが耳を押さえてよろめき、若い水兵が甲板に膝をつく。クラーケンの一本の触手が海を割り、一隻の魔導巡洋艦を紙細工のように真っ二つに叩き折る。悲鳴を上げる間もなく、鋼鉄の巨体が冷たい潮流の底へと消えていった。艦橋から立ち昇る黒煙が、月光の下で不吉な柱となって伸びていった。


「ラグナ殿、今です!」


防潮堤の先端。サツキ・ハートフィールドが《星凪ほしなぎ》を構え、隣に立つラグナ・ティレオンへと鋭い視線を送った。


「……往くぞ、マリスの戦士たちよ! 我らの海を、規格という名の泥から取り戻す!」


ラグナの咆哮に応じ、数百名のマリス族が小型高速艇に飛び乗り、あるいは魔力を脚部に集中させて海面を蹴った。彼らの手に握られているのは、近代的な魔導銃ではない。先祖代々受け継がれてきた、海洋魔獣の骨と魂を宿した三叉槍である。月光の下、無数の槍先が波間に閃き、まるで海そのものが牙を剥いたかのような光景を作り出していた。


戦士たちは荒れ狂う波を突き抜け、クラーケンの足元へと肉薄する。触手が振り下ろされる直前、サツキが地を蹴り、《星凪ほしなぎ》の蒼い一閃が空中でその軌道を物理的に弾き飛ばした。着水した水飛沫が彼女の頬を叩いたが、その視線は一瞬たりとも敵の巨躯から逸れることはなかった。


(……不合理極まりない。だが、これが『武』か)


後方の指揮所。アレン・ヴァルグレイは、リィナが維持する《空間隔絶結界スペース・セパレーション》の中で、眼前の地獄絵図を冷徹に観測していた。結界の薄い膜の向こうで揺らめく爆炎の光が、彼の漆黒の瞳に映り込み、微かな朱色の残像を落としていた。


視界の中で、エルシアン王子は自ら小型艇を操り、狂ったように魔導ランチャーを接射し続けている。だが、彼が信じる「規格化された正義」は、目の前の圧倒的な「生存」の質量に、一欠片の傷も与えられていない。放たれる魔力弾の一つ一つが、まるで空虚な祈りのように海面へ吸い込まれては消えていくばかりであった。


アレンは掌を空間へ向け、《魔力直接操作アーケイン・マニピュレーション》で戦場の波長を演算した。クラーケンの咆哮の合間に聞こえてくるのは、不自然な「凪」の残響。王子が海に落としたあのチップが、魔獣の心臓部と共鳴し、その生存本能を「正義」という名の狂乱へと書き換えていた。


「アレン様、潮の色が変わります。……あれは、悲鳴です。海も、魔獣も、戦っている人たちも……みんな、間違った何かに押し潰されています」


リィナ・フェルウェンが自身の胸元を強く握りしめ、苦悶の表情を浮かべた。彼女の《思考読解》が捉えているのは、エルシアン王子の陶酔と絶望、そしてマリス族の戦士たちの、血を吐くような「生への執着」の混濁であった。あまりにも多くの感情の波が一度に押し寄せ、リィナの額にはうっすらと汗が滲んでいた。


「セリス。……奴の重心はどこだ」


アレンの極低温の問い。その声は、指揮所で魔力波形の演算に没頭していたセリス・ヴァレンティアへと届けられた。セリスは指先を走らせ、ローレン海軍の広域スキャンデータを自身の演算回路へと直結させる。彼女の青色の瞳が、無数のホログラムの数値を追う中で、僅かに眇められた。


「お待ちになって、今、ノイズを分離しますわ。……おかしいですわね。この魔獣、本来の心臓――第一核とは別に、外部から強引に書き換えられた『魔力の結節点』が存在していますわ」


モニターには、防潮堤で暴れるクラーケンの拍動とは別に、港の奥から発せられる無機質なクロック信号が映し出された。セリスの青色の瞳が、その信号の源流を射抜く。彼女は歯を食いしばり、指先の動きを一段と速めた。


「……特定しましたわ! 源流はここから数百メートル後方、港湾区の『静止の波止場』の海底です! そこに沈んだ未知のデバイスが、遠隔で魔獣の神経系を掌握し、人工的な第二の核として機能しています。……これがあの異常な防御膜の源流オリジンですわ!」


セリスの冷静な分析。彼女の網膜には、生物の理を否定し、遠隔地から無理やり「規格」を押し付ける不浄な波形が映し出されていた。それが誰の手によるものか、その場にいる者はまだ誰も知らない。だが、港の底に沈むその異物がこの嵐のタクトを振っていることだけは、冷徹な数値が証明していた。


「アレン様、あの波止場の底に、この嵐を繋ぎ止めている『楔』が沈んでいますわ!」


セリスの叫びが弾けた。アレンはその漆黒の瞳に、示された座標を冷徹な光として受け取った。彼の視線の先、防潮堤が守るべきはずの港の深部で、未知の人工物が放つ蒼紫色の燐光が、不気味な脈動を繰り返していた。荒れ狂う海面と、崩れゆく艦隊、そして狂乱する魔獣。その全てを支配する糸の在り処が、今、ようやくアレンの掌中に収まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ