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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第29章:蒼穹の澱(よどみ)

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304/322

29-8

ローレンポートの最外縁、海へと一キロメートル以上も突き出した巨大な防潮堤「蒼龍の背」。そこは今、ガルディアの峻烈な冬をも凌ぐ、凍てつくような「静寂」に支配されていた。頭上に浮かぶ銀と蒼、二つの月は、不自然に波の消えた海面を鏡のように照らし出し、水平線の彼方から這い寄る巨大な影を浮き彫りにしている。防潮堤の石畳には、緊急招集を受けた兵士たちの足音が絶えず響き、松明代わりの魔導灯が夜風に揺れていた。


アレン・ヴァルグレイの号令を受け、一行は港湾区の防衛拠点へと展開していた。アレン、リィナ、セリスが後方の指揮所で魔力波形の演算と結界の維持に当たる中、最前線の防壁の上には、サツキ・ハートフィールドの姿があった。


彼女の隣には、港湾省次官としての官僚服を脱ぎ捨て、マリス族の戦士としての正装を纏ったラグナ・ティレオンが立っている。ラグナの手に握られているのは、巨大な海洋魔獣の脊髄骨を加工し、魔導回路を流し込んだマリス族伝統の三叉槍であった。その柄には、長年の使用によって刻まれたであろう無数の傷跡が、月光を受けて鈍く光っている。


「……アレン殿が仰っていた『凪』の正体が、これですか」


ラグナが、海底のような濃い青色の瞳を細め、動かぬ海を射抜いた。彼の足元、防潮堤の下に広がるテトラポットの影には、数百名に及ぶマリス族の戦士たちが、一言も発さずに槍を構えて潜んでいる。彼らに与えられた任務は、魔獣が防壁に到達する前に海上で迎撃する「防波堤」としての特攻に近い役割であった。潮風に混じって、彼らの押し殺した呼吸の気配だけが、防潮堤の下から伝わってくる。


サツキは背負っていた薙刀《星凪ほしなぎ》を、静かな動作で引き抜いた。夜の闇を吸い込むような蒼い刀身が、月光を反射して鋭い銀光を放つ。彼女はその石突を一度だけ石床に響かせ、自身の重心を安定させた。石突が石畳を叩く音は短く硬質で、それだけがこの静まり返った海に、確かな人間の意志の存在を刻みつけているようだった。


「……刃が震えています。私の《星凪ほしなぎ》も、ラグナ次官の槍も。……この海の底にあるのは、ただの魔獣ではありません」


サツキの言葉通り、二人の武器は呼応するように共鳴を始めていた。《星凪ほしなぎ》に組み込まれたトラヴァンの回路と、ラグナの槍に宿るマリスの古い術式。技術の源流は違えど、迫りくる理外の災厄を前に、二つの「武」は生存本能として同じ警告を鳴らしているのである。


「彼らは……逃げないのですね」


サツキが防潮堤の下で息を潜めるマリスの戦士たちに視線を落とした。リィナから魔力循環を通じて伝わってくる精神波形によれば、階層下のアラートが鳴り響く中、彼らの心にあるのは絶望ではなく、ある種の「放棄」に近い静寂であった。彼らの多くは、若い顔立ちのまま、既にどこか諦めを湛えた表情で槍を握りしめていた。


ラグナは唇を噛み締め、槍を握る手に力を込めた。


「……マリス族にとって、海で死ぬことは誉れだと教えられてきました。ですが、今のこれは違う。……彼らは、効率的な物流を維持するための『消耗品』として、あそこに並べられているのです。セレノアの学者がもたらした『規格』という名の定規が、彼らの命の価値を、コンテナ一つ分の損失以下に書き換えてしまった」


ラグナの声には、実務家として組織の内側からこの不条理を支えざるを得なかった男の、血を吐くような悔恨が滲んでいた。彼の視線は一瞬、テトラポットの陰にうずくまる若い戦士の一人へと向けられ、そこに自分自身のかつての姿を重ねているかのようであった。


「私の仕事は、彼らの死を『最小限のノイズ』として処理することでした。……サツキ殿。貴女のように、誰かを守るために刃を振るう武人が、今の私には眩しすぎる」


サツキは無言のまま、ラグナの青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。武人として生きてきた彼女にとって、ラグナが抱える「誇りと妥協の狭間」にある苦しみは、かつて自分が迷宮の深層で感じた無力感と同質のものに思えた。あの時、鉄の棒と化した愛槍を握りしめ、己の未熟さに歯噛みした記憶が、静かに胸の奥から蘇る。


「……私は、アレン様に救われました」


サツキの静かな声が、潮騒の消えた空間に響く。


「私が私の武を見失いそうになった時、あの方は『帰れ』と仰いました。……死ぬことが誉れなのではない。生き抜いて、主を繋ぎ止める『楔』であり続けることこそが、私の武の誇りなのだと。……ラグナ殿、貴方の槍も、まだ死んではいないはずです」


サツキが《星凪ほしなぎ》を中段に構えると、彼女の周囲で魔力波長が激しく揺らぎ始めた。後方の指揮所にいるアレンとの「三拍子の鼓動」が、防潮堤を越えて彼女の深層回路を活性化させている。アダマンタイトの刃が、主の魔力循環を受けて絶対的な真空の衣を纏い始めた。刃の表面を薄く覆う光の膜が、月明かりの下でわずかに揺らめきながら、彼女の構えに一層の鋭さを添えていた。


「ラグナ殿、マリスの戦士たちに伝えてください。……ノイズとして死ぬ必要はない、と。背後はガルディアの楔が断ち切ります。……貴方たちは、貴方たちの誇りのために、その槍を振るってください」


サツキの誠実な言葉に、ラグナは一瞬だけ目を見開き、それから深く、深く頷いた。彼の槍からもまた、海底の怒りを体現したような、重厚な水の魔力が溢れ出していた。


「……感謝する、サツキ殿。……全軍、聞け! これはシステムの守備ではない! 我らが誇り、マリスの海を取り戻す戦いだ! 命を無駄にするな、理外の零番が我らと共に歩んでいる!」


ラグナの咆哮が、アーク・リンクの通信波に乗って防潮堤全域へと広がった。その瞬間、静まり返っていたマリスの戦士たちの士気が、爆発的な魔力反応となって夜の闇を震わせた。テトラポットの陰から一斉に立ち上がる無数の影。槍の穂先が月光を受け、海面に幾筋もの銀の光を落としていた。それまで沈黙に押し潰されていた戦士たちの目に、消えかけていた光がゆっくりと戻っていくのを、サツキは確かに見て取っていた。


「……行くぞ、お前たち。今夜は誰一人、ただのノイズになど死なせはしない」


一人の若い戦士が、震える声でそう呟くのが、風に乗ってサツキの耳へと届いた。その言葉に応じるように、周囲の戦士たちが低く、しかし力強い唸り声を上げ、槍の柄を握り直していく。


──直後。

ローレンポートの沖合数キロ、鏡のような海面が、音もなく巨大な円を描いて陥没した。

物理法則を無視した巨大な渦の中心から、白銀の月光を遮るほどの黒い巨躯がせり上がってくる。


『クラーケン・レガリア』。

深海四千メートルに眠る守護獣級の魔獣が、エルシアン王子の沈めた「毒」によって狂乱し、その数万トンの質量を咆哮と共に海面へと叩きつけた。海鳴りにも似たその咆哮は、防潮堤の石床を震わせ、遠く王宮のテラスにまで届くほどの重低音を伴っていた。


「……来ましたわね。計算外の巨大質量ですわ!」


指揮所からセリスの警告が響く。だが、防波堤に立つサツキの瞳に迷いはなかった。彼女は隣に立つラグナと視線を交わすと、地を蹴るための力を脚部へと集中させた。防潮堤の下では、数百の三叉槍が一斉に構えられ、その切っ先が月光の下、静かに、しかし確かな意志を宿して海の彼方を見据えていた。


武の国の残響を背負う者と、海洋王国の誇りを背負う者。種族もシステムも越えた二つの槍が、いま、碧き潮流を切り裂くための最初の一歩を同時に踏み出したのである。防潮堤を叩く水飛沫が、二人の足元を濡らしながら、次なる激戦の幕開けを静かに告げていた。


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