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「蒼天の食卓」を包んでいた至福の余韻は、宴の終わりと共に、夜の静寂へと溶けていった。二つの月が中天に並び、ローレンポートの海面を白銀と蒼の双色に染め上げている。王宮の喧騒を離れ、港湾区の最外縁、一般人の立ち入りが禁じられた「静止の波止場」に、一人の青年が立っていた。
ローレン海洋王国第一王子、エルシアン・ローレン。彼は手元のアーク・リンクのホログラムを消去すると、懐から一辺が数センチほどの、無機質な黒鋼色の魔導チップを取り出した。それは数刻前、セレニス魔導生態学院の顧問を自称する男、ケイン・ヴァルゼから手渡された「救済の種」であった。
チップの表面には、極小の魔導回路が血管のように這い回り、周囲の魔力を吸い込んでは、不気味なほど一定の周期で淡い青光を放っている。手のひらに乗せたその重みは、想像していたよりも軽く、それがかえってエルシアンの胸の内に、奇妙な違和感を残していた。
(……これがあれば、もう誰も死ぬ必要はなくなる。マリスの誇りという名の、野蛮な犠牲も)
エルシアンの脳裏には、今日、第七港湾区で目にした光景が焼き付いていた。泥と油にまみれ、海洋魔獣の返り血を浴びながら解体作業に従事するマリス族の同胞たち。彼らの住むスラムの饐えた匂い。そして、海軍の最前線で「盾」として命を散らしていく、父アクアリオが愛し、同時に切り捨てている「武人の魂」の残響。
ケインの言葉が、耳の奥で呪文のように繰り返される。
『規格こそが、救済なのです。海を、魔獣を、そして人々を一つの理屈で縛り、不協和音を消し去る。貴方は、その英雄となるのです』
エルシアンは震える指先で、波止場の手すりを強く握りしめた。海から吹き上がる夜風は冷たく、彼の肌を刺す。混血である彼は、常に自分の内側に流れる二つの血の不協和音に苦しんできた。ローレン族の冷徹な知性と、マリス族の荒々しい情熱。そのどちらにもなりきれず、どちらの陣営からも「都合の良い象徴」として扱われてきた焦燥が、今この瞬間もじわりと胸を締め付けている。
「私は……、私を完成させたいだけなのかもしれない」
自嘲気味な独白が、波音にかき消される。彼はチップを専用の魔導カプセルへと装填した。このデバイスは、セレノアとローレンが共同開発していた「集魚誘導技術」の最終プロトタイプだと聞かされていた。海流を「整え」、魔獣の闘争本能を「凪」へと誘う福音の装置。カプセルの表面はひやりと冷たく、その冷たさが、彼の中に残る最後の躊躇いを黙らせるように感じられた。
カプセルを海へと投げ込む直前、エルシアンの視界の端を、頭上を旋回する無機質な影が横切った。最新型監視ドローンである。その紅い監視孔が、王子の「決断」を世界へ中継するかのように、静かに一点を見つめていた。だが、陶酔の淵にいる王子は、その視線の意味に気づくことはなかった。
「往け。……新しい世界の楔となれ」
エルシアンが手を離すと、魔導カプセルは重力に従い、夜の海へと吸い込まれていった。ドボン、という小さな水音が響き、カプセルは蒼い気泡を吐き出しながら海へと沈んでいく。その気泡の軌跡が、月光を受けてしばらくの間、細い光の糸のように水面に残っていた。
数秒の静寂。エルシアンは手すりに寄りかかったまま、その静けさの中に、束の間の安堵を感じていた。これで、もう誰も、あの解体場の惨状を「誇り」という言葉で美化しなくて済む。そう信じて疑わなかった。
直後、王子の足元の石床を、形容しがたい不気味な「微動」が揺らした。
カプセルが一定の深度に達した瞬間、内蔵されていたチップが起動し、周囲の海水を媒介にして「情報の凪」を放射し始めたのである。それは、自然界の魔力揺らぎを強引に平坦化し、ある一定の「規格」へと上書きしていく、理(魔術)を無視した物理的な侵食であった。
「っ……あ……!」
エルシアンは自身の胸元を、突き飛ばされたような衝撃に押さえた。チップから放たれる周波数は、彼の内側に流れるマリス族の血──本能的な魔力感応と共鳴し、かつてないほどの清涼感をもたらした。不快な感情の波立ちが消え、思考がクリアに、無機質なほどに整えられていく感覚。
(素晴らしい……。これだ、これこそが私が求めていた『正義』の形……)
王子の瞳から、マリス族特有の琥珀の輝きが失われ、代わりに不気味なほど透明な、規格化された色彩が宿っていく。彼の呼吸は静かに、しかし機械的なリズムを刻むように整えられ、それまで胸の奥でくすぶり続けていた焦燥や罪悪感が、まるで潮に洗われるように遠のいていった。
──だが。
エルシアンが安堵の吐息を漏らしたその瞬間、海流の性質が劇的に変質した。
チップから放たれていた「凪」の波形が、特定の深度に潜む巨大な魔力反応を捉えた瞬間、それは「救済の歌」から「狂乱の導火線」へと姿を変えたのである。
本来、魚を集めるための微弱な波長を意図的に暴走させ、深海に眠る守護獣級の魔獣だけを誘引・狂乱させるための、セレノアの研究を悪用したトラヴァン製禁忌モジュール。
海の底から、地響きとも、咆哮ともつかぬ重低音がせり上がってくる。波止場を叩く波は、不自然なほど規則正しい幾何学模様を描き、その中心に巨大な渦が発生した。水面がまるで一枚の巨大な鏡のように歪み、月光を乱反射させながら、ゆっくりと、しかし確実にその渦の中心へと吸い込まれていく。
エルシアンはその異変に気づかぬまま、なおも透明な瞳で暗い海面を見つめ続けていた。彼の中で「正義」はまだ完成されたと信じられており、足元で膨れ上がりつつある災厄の胎動を、彼自身が最も遠くに置き去りにしていた。
同じ頃。王宮のテラス「蒼天の食卓」では、アレン・ヴァルグレイがグラスを握ったまま静止していた。彼の《魔力直接操作》は、地中を伝ってくる「不協和音」を、既に演算データとして捉えていた。
(……凪が、破れたな)
アレンの黒い瞳が、夜の帳を射抜くように港の方角を向く。彼の感覚触手が捉えたのは、王子の「正義」が引き寄せた、あまりにも巨大で、あまりにも「不自然な」災厄の胎動であった。テーブルの上に置かれたグラスの水面が、遠く伝わる振動を受けて、微かに、しかし確かに波紋を描いていた。
「……リィナ、セリス、サツキ。至急、戦闘準備を。……美食の時間は、これで終わりだ」
アレンの極低温の号令に、三人の楔たちが弾かれたように立ち上がる。談笑に緩んでいた空気が、一瞬にして張り詰めた緊張へと塗り替えられた。リィナは咄嗟に胸元を押さえ、遠く海の底から届く重苦しい波長に息を呑み、セリスはレイピアの柄へと即座に手を伸ばした。サツキは既に《星凪》を手に取り、テラスの外へと視線を鋭く投げていた。
港の奥底、エルシアン王子が「救済」と信じて沈めたチップは、いまや深海四千メートルの化け物を地上へと釣り上げるための、呪われた釣り針へと変貌していた。静寂を切り裂き、ローレンポートの空に、緊急事態を告げる真紅の魔導信号が打ち上げられたのである。
夜空を染め上げるその紅い光の下で、波止場に立つ王子だけが、まだ何も知らぬまま、静かな海を見つめ続けていた。彼の胸の内に広がるのは、依然として揺るぎない確信であった。だが、その確信の裏側で、海はもはや、彼が信じた「規格」の届かぬ深淵から、巨大な牙を剥こうとしていたのである。




