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ローレンポートの喧騒を離れ、一行が案内されたのは、王宮の最上階に位置する「蒼海の離宮」であった。そこは人間であるローレン族の居住区とは趣を異にし、潮風を直接引き込む開放的な回廊と、海洋魔獣の骨を加工した伝統的な装飾が随所に施された、マリス族の文化が色濃く残る空間であった。柱の一本一本に彫り込まれた波の紋様が、灯りの揺らめきを受けて、静かに息づいているように見える。
夜の帳が下りたテラス。そこには、エルシアン王子の母であり、ローレン国王の第二妃であるミオラ・ローレンが一人、月明かりに照らされた海を見つめて立っていた。彼女は獣人特有のしなやかな肢体と、誇り高いマリス族の面影を宿していたが、その琥珀色の瞳には、深い潮騒のような憂いが沈んでいた。潮風が彼女の柔らかな銀青系の髪をゆっくりと揺らし、胸元の蒼い宝飾がその動きに合わせて微かに光を弾いていた。
「……遠いところをお越しいただき、感謝いたします、理外の零番。そして公国の楔たちよ」
ミオラは静かに振り返ると、王妃としての威厳を保ちつつも、どこか切実さを孕んだ一礼を捧げた。リィナ・フェルウェンがそっとアレンの隣に寄り添い、ミオラから放たれる精神波形を、自身の思考読解で注意深く掬い上げる。
(……苦しみ、というよりは、冷たい霧に包まれているような絶望。……この方は、何かをとても恐れている)
リィナがアレンにだけ伝わる微かな魔力波長を送った。アレンは無言のまま、テラスの手すりに背を預け、ミオラへと視線を向けた。
「アクアリオ王に呼ばれたが、王妃の望みは別にあるようだな。……何を案じている」
アレンの極低温の問いに、ミオラは細い指先で自身の胸元──マリス族の誇りを象徴する蒼い宝飾を握りしめた。
「……エルシアンのことです。あの子の瞳から、マリスの熱き情熱が、海への畏敬が消えようとしています。代わりに、どこかの誰かが定義した、不気味なほどに『正しい規格』が入り込んでいるのです。……あれは魔術ではありません。魂を塗りつぶす、無機質な凪なのです」
「規格……。アグニスの王が言っていたことと同じ、ですわね」
セリス・ヴァレンティアがレイピアの柄を指先で軽く叩き、凛とした表情でアレンを見遣った。アレンの脳裏には、出発直前にヴァルガンが漏らした「術式なき侵食」という言葉が蘇っていた。あの帝国の武の王が抱いていた焦燥と、今、目の前の母がこぼす憂いは、驚くほど似た輪郭を持っていた。
「あの子は、自分たちの血を恥じるようになりました」
ミオラの声が微かに震える。
「マリス族が命を懸けて海洋魔獣を狩ることを『効率の悪い野蛮な風習』だと断じ、全てを数値とシステムで管理すべきだと……そう口にするようになったのです。……彼に寄り添う者たちがいます。自分たちを『合理的な未来の導き手』と称する、冷たい目の者たちが」
「……それは、学術国家の者たちではありませんの? ローレンとセレノアは魔獣研究で深い協力関係にあるはずですわ」
セリスの指摘に、ミオラは力なく首を振った。
「分かりません。彼らは学者のような振る舞いをしますが、その根底にあるのは真理の追究ではなく、世界を『整えよう』とする狂信的な意志です。……アレン様、あの子を救ってください。規格という名の檻に閉じ込められ、マリスの魂を失う前に」
ミオラの言葉と共に、潮風がテラスを通り抜けていった。アレンは掌を空間へ向け、周囲の波長を演算した。確かに、この美しい離宮の空気の中には、自然な魔力の揺らぎを拒絶するような、極めて均質化された「冷気」が混ざり込んでいた。それは、いかなる魔術消去でも捉えきれない、理屈による侵食の残響であった。指先を通して伝わる感触は、氷というよりも、感情を持たない機械の呼吸に似ていた。
「……俺は医者じゃない。人の考えを治す力も持っていない」
アレンは突き放すように告げたが、その視線は既に、遠く夜の港湾区で蠢く不自然な魔力反応を射抜いていた。
「だが、世界に吹く風が歪んでいるというのなら、その源流を叩く。……それが、俺の『仕事』のやり方だ」
アレンの言葉に、背後で控えていたサツキ・ハートフィールドが静かに一歩前へ出た。彼女の茶色の瞳には、ミオラが語った「武の誇りの消失」に対する、静かな怒りが宿っていた。武人として、誇りを踏みにじられる者の痛みを、彼女は誰よりも身近に感じ取ることができた。
「王妃様、アレン様の背後は私が守ります。……エルシアン王子の刃から熱が消えた理由、私たちが必ず突き止めます」
サツキの誠実な言葉に、ミオラは深く、深く頭を下げた。涙が石床に落ち、小さな音を立てた。その音は、テラスに満ちる潮騒の中に紛れて、ほとんど誰の耳にも届かなかったが、リィナだけはその微かな響きを、自分の胸の奥に刻みつけるように聞いていた。
「感謝いたします……。海王としての夫にも言えぬこの不安を、受け止めていただけるとは……」
母としての孤独な叫び。それは、構造的差別という深い闇に、さらなる「規格」という名の毒が混じり始めた王国の、隠された悲鳴であった。テラスに立つミオラの姿は、王妃という肩書きよりも先に、一人の子を案じる母の姿として、その場にいる誰の目にも焼きついていた。
アレンたちはミオラに見送られ、離宮を後にした。回廊を抜ける潮風が、去りゆく四人の背をそっと押すように吹き抜けていく。マリス族の紋様が刻まれた柱の陰から、ミオラがしばらくの間、彼らの後ろ姿を見送っていたことに、誰も気づいてはいなかった。
廊下を歩むアレンの黒いコートが、不穏な風を孕んで小さく波打つ。
(……魔術ではない汚染。……消すべき術式がないのなら、俺は何を消すべきか)
その問いへの答えは、まだ見つかっていない。夜の王宮に灯る魔導照明の光が、廊下を進む四人の影を長く伸ばし、壁面に映る波の彫刻と重なり合っては、ゆっくりと揺れていた。アレンの脳裏では、ミオラの語った「規格」という言葉と、ヴァルガンが漏らした「凪」という言葉が、静かに一つの輪郭を結び始めていた。それはまだ形を持たない、しかし確実に世界の深部で蠢いている何かの予兆であった。
一行の進む先には、既に工作員たちが仕掛けた、巧妙な「正義」の罠が口を開けて待ち構えていたのである。夜のローレンポートは変わらず静かに凪ぎ、月明かりを浴びた海面は、何事もなかったかのように穏やかな光を湛え続けていた。




