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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第29章:蒼穹の澱(よどみ)

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女神歴二一九八年、五月。西大陸の中央に横たわるガルディア公国は、長い冬の記憶をすでに手放し、若葉の匂いを孕んだ穏やかな季節へと移り変わろうとしていた。公国宮殿の敷地に佇む白亜の別邸。その南に面したテラスには、最新の魔導空調が生み出す清涼な微風が絶えず流れ込み、遠くの庭園から漂う薔薇の香気と混じり合って、昼下がりの空気を柔らかく染め上げていた。石畳の隙間から覗く苔の緑が朝露を残したまま光を弾き、テラスの縁を這う蔦の若葉が、風のたびに小さく揺れている。


理外の魔軌士アレン・ヴァルグレイは、一人がけの革張りソファに深く身を沈め、手元のアーク・リンクに浮かぶ迷宮資源の換金ログを、感情の色を欠いた瞳で追っていた。数字の羅列がただ静かに更新されていくその画面は、彼にとって世界の均衡を測る唯一の定規に近いものだった。


その隣、テーブルを挟んだ椅子では、サツキ・ハートフィールドが膝の上に横たえた薙刀《星凪ほしなぎ》を、専用の魔力布で丁寧に拭い上げていた。刀身に付着した目に見えぬ埃を拭う所作は、意識するまでもなく身体に染みついた儀式であり、武人としての彼女の呼吸そのものと同義であった。窓から差し込む陽光が蒼い刃の表面を滑り、彼女の指先が動くたびに、その光が微かに揺らめいた。


リィナ・フェルウェンは、いつもと変わらぬ穏やかな所作でティーポットを傾け、アレンのカップへ琥珀色の液体を静かに満たしていく。立ち昇る湯気が陽光に透け、彼女の淡い青色の瞳が、それを見つめてほのかに緩んだ。


「アレン様、お茶の温度はいかがですか」


「ああ。問題ない。いい香りだ」


短い応答。だが、その一言にこもるわずかな穏やかさを、リィナは誰よりも敏感に感じ取っていた。カザリアの草原で内乱を鎮め、サハリスの砂漠で精神汚染の源流を断ち切ってから、アレンを繋ぎ止める「三拍子の鼓動」は、これまでにないほど完璧な調和を保っていた。誰も傷つかず、誰も泣かぬ日々。それがどれほど得がたいものであるかを、この場にいる誰もが、口には出さぬまま噛み締めていた。


その静かな均衡を破るように、テラスへと続く重厚な扉が軽やかに開かれた。


「皆様、少しよろしいかしら? 公女王陛下より、至急の伝言を預かってまいりましたわ」


現れたセリス・ヴァレンティアは、辺境伯令嬢としての気品を纏った足取りで三人の元へと歩み寄ると、指先で空中に触れ、青白いホログラムウィンドウを展開させた。そこに浮かび上がったのは、巨大なクラーケンと三叉槍を象った紋章――南の大国、ローレン海洋王国の国章であった。深海の紺と銀の光沢を帯びたその紋様は、見る者に潮の匂いすら錯覚させるほど精緻に描かれている。


「ローレン海洋王国の国王、アクアリオ・ローレン陛下より、アレン様への公式な親善招待状ですわ。先月のカザリアにおける『一滴の血も流さない平定』の功績を聞き及び、ぜひ我が国へもお越しいただきたい、とのことですの」


アレンは投影された紋章を一瞥すると、僅かに眉を寄せ、温度を欠いた声で短く応じた。


「……断れ。俺は魔軌士だ。農家でも、牧場主でも、ましてや漁師でもない。差別問題の調査や友好親善なら、専門の外交官を送るのが合理的だ」


アレンの脳裏には、あのカザリアでの一件が、称賛とは切り離された「事務的な記憶」として静かに横たわっていた。あの介入は、あくまで魔軌士局からの正式な越境任務として登録されたものであり、何より「誰も泣かずに済む結末」を願ったリィナたちの想いに応えた結果に過ぎなかった。内戦の終結に用いた和平条項にしても、アレン自身が一から編み出したものではない。事前に公女王エリシアから「もしもの時の落とし所」として授けられていた知恵を、現場でそのまま形にしただけのことだ。世間はそれを理外の英雄譚として語りたがるが、アレン本人にとっては、あくまで依頼を合理的に処理した結果の一つに過ぎなかった。魔力の理に直接関わらぬ世俗の紛争や、退屈な外交儀礼に、自ら進んで力を貸し出すつもりは、彼には毛頭なかった。


だが、セリスの青色の瞳には、主の拒絶をあらかじめ見越していたかのような、悪戯っぽい知性の光が宿っていた。彼女は誓導者として、アレンの合理性の隙間を突く術を、いつしか完璧に会得していた。


「そう仰ると思いましたわ。ですが、アクアリオ王はこうも付け加えておられますの。……『もしアレン殿が御多忙であれば、我が国でしか味わえない、深海四千メートルの恵みをお見せできないのが残念でならない』、と」


セリスが指先でホログラムをゆるやかにスクロールさせる。文字情報の羅列に代わって画面に映し出されたのは、視覚と、そして想像上の嗅覚までも強烈に刺激する高解像度の映像であった。


「ご覧になって、この『蒼銀蟹そうぎんかに』を。南の深海、極限の高圧下でしか生息しない幻の蟹ですわ。その身は魔力を凝縮した結晶のように透き通り、魔力塩で熟成させた刺身は、口の中で蕩ける瞬間に魔力回路を直接洗浄するほどの鮮烈な旨味を放つと聞き及びますの。……さらに、地元のマリス族しか知らない『魔力熟成魚』。これは深海の冷たい海流の中で三か月間、一定の魔力振動を加え続けて熟成させる、至高の逸品だそうですわ」


蒼銀蟹そうぎんかに、魔力熟成魚。その単語がテラスの空気に落ちた瞬間、ぴりりとした緊張感が四人の間を走った。


リィナが手にしていたティーカップが微かに揺れ、彼女の淡い青色の瞳が、吸い寄せられるように画像へと固定された。彼女は自身の胸元を、期待と戸惑いが混ざり合ったような複雑な表情のまま、そっと押さえた。


「魔力回路を洗浄するほど……美味しいのでしょうか。アレン様の負担を減らすためにも、質の高い食事は必要ですよね……」


言葉は控えめであったが、その背後から立ち上る「期待」の熱を、アレンの鋭敏な感覚が見逃すはずはなかった。さらに、薙刀の手入れを止めたサツキが、静かに、しかし抗いがたい意志を込めた眼差しでアレンを見つめ返していた。


サツキは《星凪ほしなぎ》を膝の上に置いたまま、頬をわずかに上気させていた。武人としての直感が、目の前の海の幸に「斬るに値する価値」を見出しているかのような、そんな真摯な沈黙が彼女を包んでいた。


「……食べたい、です。海。……海の幸を、食べてみたいです」


武人らしい、短くも切実な本音であった。アレンは最後の一線としてセリスを見遣ったが、彼女もまた、辺境伯令嬢としての気品ある微笑みの裏に、隠しきれない美食への渇望を滲ませていた。


「外交は相手の懐へ飛び込むことから始まりますわ、アレン様。ローレン海洋王国は、公国の魔導船舶技術における重要な提携国。彼らの誇る文化――すなわち食に触れることは、将来的な迷宮資源の協力体制を築く上でも、極めて合理的な判断ですわ」


リィナの献身、サツキの誠実、そしてセリスの理屈立った説得。三つの楔が形成する完璧なまでの「美食への円環」を前に、アレンは天を仰ぐようにして深い息を吐き出した。彼の内側に宿る理外の力は、どうやらこの三人の胃袋という、あまりにも現実的な重力にだけは、決して逆らえないものらしかった。


「……分かった。準備をしろ。ローレンへ向かう」


アレンの極低温の承諾。その言葉が落ちた瞬間、テラスには花が咲いたような歓喜の気配が満ちた。リィナは安堵と喜びを綯い交ぜにした笑みを浮かべ、セリスは満足げに睫毛を伏せる。サツキだけは表情を大きく変えることなく、しかし膝の上の薙刀を握る指先に、隠しきれない高揚がわずかに滲んでいた。


数時間後、公女王エリシア・ヴァルステイン・ガルディアの執務室を訪れた一行は、快い「友好国訪問」の許可を直接受けることとなった。


「カザリアでの件もありますもの。友好国であるローレンからの招待を無下にするわけにはいきませんわ。アレン殿、これは公国を代表する公式な親善任務として、魔軌士局にも登録しておきますわね」


エリシアの穏やかな微笑みがアレンに向けられる。彼女の右手薬指では、アレンが贈った共鳴指輪が午後の陽光を反射して淡く輝いていた。カザリアの一件で「落とし所」の知恵を授けたのが自分自身であることを、エリシアはあえて口にはしなかった。それはあくまで公女王としての裏方仕事であり、表舞台の栄誉はアレンたちのものだと、彼女なりに割り切っているようだった。


「感謝するわ、アレン殿。……南の海の風は、きっと皆さんの疲れを癒やしてくれるはずよ」


こうして、理外の零番と三つの楔による「南大陸遠征」は、美食という名の不可避な引力によって決定された。魔軌士局本局へは速やかに「越境任務」としての登録が完了し、軍用飛行場ではガルディア公国軍の最新鋭魔導軍用機が、青い海への翼を広げて離陸の時を待っていた。滑走路の先には初夏の霞がかった空が広がり、機体の側面に反射する光が、旅立ちの近さを静かに告げていた。


出発の準備を整え、別邸の玄関へと向かおうとしたその時であった。アレンのコートのポケットで、アーク・リンクが重厚な、しかし聞き慣れない固有の電子音を鳴らした。それは公国の通常回線ではなく、特定の国家元首のみが使用を許される、暗号化レベル最大級の「最優先秘匿回線」であることを示していた。


アレンが端末を起動させると、ホログラムウィンドウに映し出されたのは、武の国アグニスの王――ヴァルガン・アグニスの姿であった。以前、天覧試合の後に見せた覇気溢れる表情とは一変し、映像の中の王は、苦渋をそのまま形にしたような沈痛な面持ちで立っていた。


『……アレン殿。急な連絡を許してほしい。公女王を介さぬ不調法を承知の上で、貴殿にだけは伝えておかねばならぬ実態がある』


ヴァルガンの声は低く、喉の奥で押し潰されたような重みを伴っていた。


『我が国の若手騎士たちが……正気を失いつつある。いや、逆だ。不気味なほどに「正論」に染まり、アグニスの誇りであった熱き荒々しさを、自ら「野蛮なノイズ」として切り捨て始めているのだ。奴らは私の命令を聞いているが、その瞳は私を見ていない。端末アーク・リンクに流れる、「国際規格の正義」にのみ、その魂を同調させている……』


アレンは端末に映るヴァルガンの憔悴した顔を見つめた。前回受けた警告は「予兆」に過ぎなかったが、今、王が語っているのは既に進行している「侵食」の報告であった。


「……呪詛や精神操作の類ではないのか」


『我が国の宮廷魔術師たちが総出で調べたが、呪いも、外部からの強制的な術式も、塵一つ見当たらぬという。奴らは自分の意志で、昨日までの自分たちを否定し、この静けさを選んでいるのだ。……アレン殿、六月の首脳会談を待たず、何かが世界を塗り替えようとしている。理外の力が、奴らの言う「規格」という名の檻に閉じ込められることだけは、断じてあってはならぬ』


通信は、それ以上の説明を拒むように一方的に断たれた。後に残されたのは、暗号化解除の残光と、別邸の廊下に漂う重苦しい沈黙だけであった。


リィナが不安げにアレンの横顔を覗き込む。アレンはアーク・リンクをコートの内側へと収めると、温度を欠いた瞳で、離陸準備に入った魔導軍用機が待つ空を見上げた。


「……魔術ではない精神汚染、か。消すべき術式がないなら、俺はただの飾りになるな」


アレンの言葉に、背後に控えていたサツキが静かに一歩前へ出た。主の感じた不協和音に呼応するように、彼女の茶色の瞳には、武人としての鋭い光が宿っていた。


「……何が吹いていようと、私は私の武でアレン様を守ります。……往きましょう」


初夏の陽光に照らされた軍用機の銀翼が、南の海へと向けて咆哮を上げた。美食への誘いと、武の国が漏らした「術式なき侵食」の正体。二つの相反する情報を抱えたまま、理外の零番たちは、碧き潮流の渦巻くローレン海洋王国へと、その足を踏み出したのである。


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