28-11
「死の砂丘」の空を汚していた悍ましい精神汚染波の咆哮は、放送基地が瓦礫の山へと化したことで、完全にその息根を止められた。アレン・ヴァルグレイたちが乗り込んだサハリス王家秘匿の軍用魔導ヘリは、黄金の砂塵を巻き上げながら、一路サハラームへと引き返していた。窓の外に広がる砂丘の稜線は、往路で見た時とは異なる、どこか静けさを取り戻した表情を見せている。
魔導エンジンの低い唸りが響く機内。かつて魔導車で往復十時間を要するとされた過酷な砂漠の行軍は、最新の鉄の翼によって片道わずか一時間余りへと短縮されていた。高度を下げ、夕闇に染まり始めた王都サハラームの全景が窓外に広がる中、アレンは膝に横たえたセラフィナ・アルシェル(No.6)の顔を無表情に見つめていた。その漆黒の瞳には、迅速な任務完遂への安堵よりも、これから向き合う「過去の断片」への静かな覚悟が沈んでいた。セラフィナの呼吸は浅いながらも規則正しく、その寝顔には、先刻までの機械的な虚無の色は微塵も残っていなかった。
リィナ・フェルウェンは座席に腰掛けながら、セラフィナの手にそっと自身の手を重ね、彼女の魔力波長が乱れていないかを絶えず確認し続けていた。セリス・ヴァレンティアは窓外を流れる砂漠の景色を眺めながら、先刻の激戦の記憶を静かに反芻していた。サツキ・ハートフィールドは薙刀を膝に立てかけ、目を閉じたまま、まだ完全には解けきらぬ緊張を、ゆっくりとした呼吸で解いていた。
王宮の地下ドックへ降り立った一行は、警備兵たちの戦慄と敬意の眼差しを浴びながら王宮の最深部、外界の焦熱を完全に遮断した「真理の間」へと直行した。石造りの壁面を大型演算端末の冷却ファンが発する低い駆動音が震わせ、無数のホログラムウィンドウが冷たい蒼光を室内に投げかけている。天井の発光石が放つ薄明かりが、往路の朝に見たものと寸分違わぬ静謐さで、四人と一人の帰還を迎え入れた。
部屋の中央には、救出された要人の緊急処置を想定した移動式の魔導医療コットが準備されていた。アレン・ヴァルグレイは、その腕に横たわるセラフィナ・アルシェルを、壊れ物を扱うような慎重さでコットへと運び、静かに横たえた。長身を屈め、彼女の頭を枕に預けるその所作には、理外の怪物としての威圧感はなく、ただ任務を完遂した男の静かな義務感だけが宿っていた。
彼女を待っていた国王サイファ・サハリスは、愛娘同然の至宝の姿を認めるなり、一国の主としての威厳をかなぐり捨てるような足取りで駆け寄ってきた。
「アレン殿……! 戻られたか」
サイファは、アレンが横たえたセラフィナの安らかな寝息を立てる顔を覗き込み、それから震える手で自身の目元を覆った。琥珀色の瞳には、王としての安堵を遥かに超えた、一人の人間としての痛切な悦びが滲んでいた。
「感謝する。……感謝という言葉では到底足りぬ。貴殿は、我が国の至宝である彼女を救い出しただけでなく、世界を蝕んでいたあの不浄な毒を、根源から断ち切ってくれた。……バルムート、アークレスト、そして我が国の要人たち。皆、憑き物が落ちたように意識を取り戻したとの報が入っている。貴殿は、今日この瞬間、文字通り世界を救ったのだ」
サイファは深く、長く頭を下げた。アグナードの闘技場で見せた武の王の礼とはまた違う、知を重んじる砂漠の王が捧げる最大級の敬意。アレンはそれに対し、表情一つ変えずに淡々と応じた。
「……俺は、依頼をこなしただけだ。彼女はしばらく、この部屋の端末で魔力波長を監視しておいた方がいい」
アレンの言葉に、リィナ・フェルウェンが静かに寄り添い、セラフィナの額に触れて魔力循環を整え始めた。淡い光がリィナの指先から伝わり、セラフィナの呼吸が少しずつ、より深く安定したものへと変わっていく。その様子を見送ったサイファは、ようやく落ち着きを取り戻したように一度深呼吸をすると、部屋の中央に浮かぶ大型演算端末へと視線を向けた。
「……さて。次は私との『約束』の番だな」
サイファの表情が、学者としての冷徹さと戦慄を湛えたものへと切り替わった。彼が演算端末を操作すると、一通の魔導記録票が抽出された。アレンは無言でそれを受け取り、漆黒の瞳をその文字列へと落とした。
『記憶領域:未疎通(アクセス不能)』
記録票に刻まれていたのは、残酷なまでの「空白」であった。
「期待させてすまない。やはり貴殿の魂の深層にある『銀白色の層』は揺るがなかった。現代魔術の極致をもってしても、その凍結された記憶の扉を叩くことすら、我々には叶わなかったのだ」
サイファが沈痛な面持ちで首を振る。アレンはその記録票を指先で握りしめ、自身の右手に宿る、理を消し去る力を静かに見つめた。指先に浮かぶ紙の質感すら、今の彼にはどこか遠いもののように感じられた。
「……アレン様。その銀白色の輝きは、決して貴方を拒絶する『壁』などではありませんわ」
澄んだ声が、静まり返った室内に響いた。医療コットの上で身を起こしたセラフィナが、まだ蒼白な顔ながらも、真っ直ぐな瞳でアレンを見つめていた。彼女は自身の魔力系統が基地の回路に繋がれていた間、アレンの深層にある「何か」に、誰よりも近くで触れていた。その声には、まだ疲労の色こそ残るものの、確かな意志の強さが宿っている。
「あれは……極めて高度な『愛の術式』。時を越えて、貴方の魂を守り抜くための祈りそのものですわ。……懐かしい、雪の日の花の匂いが、今も貴方の奥底で呼吸をしています。貴方が、あの人と交わした『必ずまた会おう』という約束。それだけが、今も貴方を理外の存在として繋ぎ止めているのですわ」
「──っ」
アレンの心臓が、物理的な衝撃を受けたかのように激しく波打った。二千年前の雪の日。銀白色の髪を揺らし、自分を未来へと送り出した「彼女」の残像。名前も声も思い出せないが、魂に宿るその温かな光だけが、かつて自分が何者であったかを示す唯一の真実だった。室内の冷たい空気の中で、その言葉だけが、アレンの胸の奥にじんわりとした熱を残していった。
「……そうか。なら、俺は俺のままでいいということだな」
アレンは自身の右手をじっと見つめ、静かに口角を上げた。その表情はほんの一瞬のことで、すぐにいつもの無感情な佇まいへと戻っていったが、傍らに立つリィナだけは、その微かな変化を見逃さなかった。彼女は何も言わず、ただ静かに主の隣に寄り添い続けた。
すべての報告と解析を終え、一行がサハリス王宮の重厚な門を一歩踏み出した、その時だった。火照った肌を、ひんやりとした冷たい感触が叩いた。
ポツリ、と乾いた石畳に黒い染みが広がる。
「……雨? 砂漠で、雨が降っているのですか?」
サツキ・ハートフィールドが不思議そうに掌を空に向けた。百年、雨が降らぬと言われるサハリスの中央砂漠。その渇いた大地に、奇跡のような慈雨が降り注ぎ始めていた。黒鋼の不浄を洗い流し、呪縛を解かれた砂漠の王国を祝福するかのような、静かな雨。落ちる雨粒は最初こそまばらであったが、やがて夜空を覆う雲の広がりと共に、その数を静かに増やしていった。
「……行きましょう、アレン様。私たちが、次に守るべき場所へ」
リィナがアレンの隣に立ち、その大きな手を優しく握りしめた。雨に濡れ始めた彼女の銀髪が、王宮の灯りを受けて淡く光っている。サツキは主の死角を埋めるように背後に控え、セリスもまた凛とした足取りで歩みを揃える。雨に煙るサハリスの空を見上げ、アレンは静かに歩み出した。彼の漆黒のコートに雨粒が一つ、また一つと染み込み、その重みが、これまでの遠征の疲労を静かに物語っているようだった。
だが、その背後に広がる「雨の音」の中には、微かな不協和音が混じっていた。
事件の解決を報じるニュースが大陸を駆け巡る中、国際同盟の事務局や魔軌士局の裏通路では、救済への感謝とは真逆の「情報の毒液」が、じわりと滲み出し始めていた。
『──奇妙だと思わないか? なぜ、あのNo.0だけが一切の精神汚染を受けず、迷宮の隠密拠点を即座に特定できたのか』
『黒鋼派の残党が消滅の間際に飛ばした通信ログには、彼の魔力署名が発信源の一部として記録されていたという噂がある……』
『彼は世界を救ったのではない。自ら解除できる「毒」を撒き、マッチポンプで各国の要人に恩を売り、国際社会の精神的支柱を握ろうとしているのではないか?』
黒鋼派の残党が、死の直前に世界中のネットワークへ放った「偽りの通信ログ」。それは、アレン・ヴァルグレイという理外の存在を、救世主から「不気味な火付け役」へと貶めるための、卑劣な断末魔の毒であった。囁かれる声は最初こそ小さく、匿名の通信端末の片隅で交わされる噂話に過ぎなかったが、それは水面に落ちた一滴の墨のように、静かに、しかし確実に情報網の奥深くへと染み渡っていった。
慈雨の裏側で、英雄を疑う声が波紋のように広がっていく。理外の零番が手に入れた「三拍子の安寧」を嘲笑うかのように、世界は再び、不信という名の深い闇へとその姿を変えようとしていた。降り注ぐ雨は、砂漠の大地を潤し、黒鋼の残滓を洗い流していったが、人々の心に忍び込んだ疑念という名の乾きだけは、どれほどの慈雨をもってしても、決して洗い流すことができないもののように思われた。王宮の門をくぐるアレンたちの背後で、雨脚は次第に強さを増し、遠くの空に静かな雷鳴が一度、低く轟いていた。




