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アレンの《魔術消去》によって粉砕された認知フィルターの残滓が、光の塵となって地下空間を舞っていた。剥がれ落ちた幻影の岩肌の奥から姿を現したのは、迷宮の石材とは決定的に質が異なる、冷たく光る重厚な鋼鉄の隔壁であった。その表面には、経年劣化とは異なる種類の傷が幾筋も走り、この場所が長らく秘密裏に使われ続けてきたことを物語っていた。
「……っ!? 扉が現れましたわ!」
セリス・ヴァレンティアがレイピア《煌光穿》の先を向け、その不自然な鉄の光沢を射抜いた。彼女の青色の瞳には、迷宮の理を欺いていた何者かへの強い警戒が滲んでいる。アレンは無造作に右手を伸ばし、鋼鉄のレバーに指をかけた。ひんやりとした金属の感触が、掌に重く沈み込む。
ガチン、という重厚な機械音が通路に反響し、重厚な扉が地響きを立ててその口を開いた。瞬間、一行を襲ったのは、迷宮特有の湿った土の匂いではなく、鼻腔を刺すような焦げ付いた魔力の悪臭と、鼻に付く薬品の臭気であった。空気そのものが粘度を持っているかのように重く、喉の奥に絡みついてくる。
「これは……ひどい。魔力の匂いが腐っていますわ」
セリスが嫌悪感をあらわにして眉をひそめる。彼女の胸中には、美しき魔術の理を汚す「不純な営み」への峻烈な軽蔑が渦巻いていた。彼女はレイピアの柄を握る手に無意識のうちに力を込め、扉の奥に広がる暗がりを睨みつけた。
室内に足を踏み入れたリィナ・フェルウェンもまた、肺の奥を直接掴まれるような不快感に、思わず自身の肩を抱くようにして身を竦ませた。淡い青色の瞳が、暗闇の奥から漏れ出す蒼紫色の燐光を捉える。
「アレン様、魔力の波形が……悲鳴を上げています」
広大な室内を占拠していたのは、幾重にも並べられた巨大な培養槽の列であった。天井近くまで積み上げられたその槽は、通路の左右に隙間なく連なり、まるで無機質な墓標のように延々と続いている。槽の中には、この第二十四階層で捕獲されたであろう迷宮魔獣たちが、粘り気のある透明な液体の中に沈められている。それらは単に拘束されているのではない。背中や四肢には太い魔力導管が直接食い込み、ドクドクと脈動するたびに、蒼紫色の「精神系魔力」が抽出され、強制的に引き出されていた。液体の中で微かに身じろぎするその姿には、抵抗する力すら残されていないようだった。
生かさず、殺さず。迷宮の構成要素である彼らの魔力を「資源」として搾り取るための、無機質な屠殺場。抽出された魔力は次々と高圧ドラム缶へ封入され、自動コンベアの上を滑るようにして奥へと運ばれていく。コンベアの駆動音が、規則正しい機械的なリズムを刻み、その無感情な繰り返しが、かえってこの施設の異常さを際立たせていた。
「アレン様、あちらを見てください。大量の『三倍収納鞄』があります」
リィナが指差す先、出荷を待つドラム缶の山と、それを詰め込むための魔導鞄が山積みされていた。鞄には見覚えのない紋章が刻まれており、それがどこの国のものでもない、非公式な組織の存在を物語っていた。
そこにあるのは、世界を「静かな崩壊」へと導くための、毒の源流そのものであった。
「──侵入者、確認。排除しろ」
不意に、部屋の陰から無機質な声が響いた。認知フィルターを纏い、気配を殺して潜んでいた数人の男たちが、音もなく姿を現した。彼らは帝国の黒鋼派が雇った運搬員であり、同時にアーラム機関の「実験体」でもあった。その足取りには生気が感じられず、暗がりの中から浮かび上がる輪郭は、どこか人形めいた不自然さを纏っていた。
「……下がってください。ここからは私の領分です」
サツキ・ハートフィールドが風を切るような速度で最前列へ躍り出た。彼女は魔力感知をあえて遮断し、武人としての極限の反射神経のみを研ぎ澄ます。手に持つ薙刀《星凪》が、室内を支配する不気味な蒼紫色の光を吸い込んで、鋭い銀光を放った。
シュパッ!!
踏み込みの一歩で石床を捉えたサツキが、流れるような旋回から石突を繰り出した。先頭にいた男の鳩尾を、骨を砕かぬ程度の衝撃で正確に射抜く。だが、その打撃を受けた男の反応に、サツキは僅かな違和感を覚えた。
「……ッ、手応えがありません。この者たち、まるで見人形のようですわ」
男たちの動きには、生存本能に裏打ちされた「恐怖」も「迷い」もなかった。吹き飛ばされてもなお、折れた腕を無造作にぶら下げたまま、機械的な足取りで再び立ち上がろうとする。その瞳には苦痛の色すら宿らず、ただ空虚な暗さだけが揺れていた。サツキは薙刀を構え直しながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。人を斬る技を極めた彼女にとって、痛みを感じない相手ほど恐ろしいものはない。
アレンは最短距離で一人の男の懐へと滑り込むと、その側頭部へと掌を吸い付くように添えた。
「……無駄だ、サツキ。こいつらの自我は、すでに精神汚染で崩壊している」
アレンの漆黒の瞳が、男の瞳を間近で射抜いた。そこに宿るのは知性の光ではなく、不気味な蒼い燐光が渦巻く、空虚な深淵。アーラム機関によって魔力回路を根源から焼き切られ、ただの「運搬機械」へと作り変えられた廃人の成れの果てであった。
「浄化ですらない、ただの強制的な同調か。……合理的だが、反吐が出るな」
アレンは掌を離し、男を無造作に突き放した。男たちは糸の切れた人形のように石床に転がり、もはや動く気配を見せない。倒れ伏したその姿には、勝敗という概念すら意味を持たない、ただの空虚な静けさだけが残されていた。
「……元凶はここじゃないな。ここはただの採集場だ」
アレンは黒い瞳を冷酷に光らせ、施設の中枢へと視線を向けた。室内の壁面に投影されたホログラムパネルには、抽出された魔力の安定度を示すグラフが刻々と更新されている。数値は緩やかに、しかし確実に上昇を続け、そのデータが示す「送り先」は、迷宮のさらに奥か、あるいは──。
「セリス、リィナ。……ここの機能は止めておく。サツキ、周辺の警戒を怠るな。毒の『糸』を辿るぞ」
「承知いたしました。不浄な拠点は、わたくしがすべて焼き払って差し上げますわ」
セリスがレイピアの柄を強く握り締め、室内の魔力炉に向けて火属性の集束を開始した。彼女の指先に灯る紅蓮の光が、暗く沈んだ室内をわずかに照らし出す。リィナもまた、主の魔力循環を支えるべく、その傍らで静かにロッドを構え直した。淡い光を放つ《澄光星環》の輝きが、培養槽に囚われた魔獣たちの影を、床にゆらゆらと揺らめかせていた。
迷宮の静寂の中で、理外の零番は、この悍ましい実験場の奥に潜む「源流」を、冷徹な演算によって捉え始めていた。培養槽の中で微かに脈打つ魔獣たちの気配を背に感じながら、アレンは施設の奥へと続く暗い通路を、静かに見据えていた。まだこの場所は、ただの入り口に過ぎないという確信だけが、彼の胸の内に沈んでいた。




