28-4
サハリス砂漠の熱砂を切り裂く乾いた熱風が、迷宮《幻砂冥廊》の巨大な入り口へと吹き込んでいた。太陽はまだ地平の低い位置にあり、夜明けの淡い橙色が岩肌を薄く染めている。だが、一歩足を踏み入れれば、そこは太陽の慈悲を拒絶した、土と闇の魔力が支配する深淵であった。第一階層の安全地帯を包む空気は、地上よりも数段重く、肺の奥をじわりと圧迫するような不快な沈黙に満ちていた。石壁を伝う微かな水滴の音すら、ここでは異様なほど大きく反響して聞こえる。
アレン・ヴァルグレイは無造作に右手を掲げ、漆黒の瞳を静かに閉じた。彼の背後には、リィナ・フェルウェン、セリス・ヴァレンティア、サツキ・ハートフィールドの三人が、それぞれの得物に手を添えたまま静かに並んでいた。誰も言葉を発さない。夜明け前の迷宮に踏み入るという事実の重さが、四人の間に張り詰めた静寂を作り出していた。
「……行くぞ。離れるな」
《空間転移》
術式も詠唱も介さない、理外の座標上書き。パチン、と乾いた指の音が響いた瞬間、視界が陽炎のように歪み、世界の色彩が一気に剥ぎ取られた。一瞬の浮遊感。次の瞬間、鼻腔を突いたのは第一階層の乾いた砂の匂いではなく、湿り気を帯びた不気味な土の臭気であった。
「……着きましたね。第二十四階層……」
リィナが銀髪を揺らしながら、周囲の暗闇に視線を走らせた。四人の周囲では、毎朝の儀式によって施された《三重魔導護膜》の淡い光が、迷宮の闇を仄かに押し返している。石壁に反射する光の輪郭が、リィナの表情を淡く浮かび上がらせていた。彼女は自身の魔力循環が安定していることを確かめるように、一度、静かに息を吐いた。
「アーク・リンク、測位完了。座標、間違いありませんわ」
セリスが魔導端末を操作し、空間に青白いホログラムの地図を展開した。地図上に記された現在地は、確かに第二十四階層の転移ポイントを示している。地図の縁に刻まれた古い測量記録には、この階層がサハリスの正式な魔軌士局によって過去に何度も踏破されている旨が記されていたが、その記録のどこにも、この先で彼らが目にすることになる「異常」への言及はなかった。
「……行きましょう。サイファ王の報告では、この階層のどこかに異常な魔力反応が集中しているはずですわ」
一行は、重厚な石造りの回廊を歩み始めた。回廊の壁には、長い年月を経て風化した文様が刻まれており、迷宮そのものが持つ古さを静かに物語っている。土の匂いの奥に、かすかに焦げたような不快な残り香が混じっていた。
サツキ・ハートフィールドは薙刀《星凪》を手に、アレンの斜め前方、死角を完全に埋める位置を維持している。彼女の深い茶色の瞳は、魔術的な感知に頼るのではなく、武人としての極限の反射神経で通路の角や天井の揺らぎを射抜いていた。足音は驚くほど静かで、石床を踏む一歩一歩が、まるで呼吸の延長のように滑らかであった。
一時間近く、一行は迷宮の迷路を慎重に辿った。曲がりくねった通路は幾度も枝分かれし、時折、遠くから低い地鳴りのような音が響いては消えた。階層が進むにつれ、空気は粘り気を増し、大気に飽和した魔力がパチパチと護膜を叩く微かな不協和音を立てている。迷宮魔獣の気配こそアレンの魔力圧に怯えて遠のいているが、その静寂がかえってこの階層の「異質さ」を際立たせていた。あるべきはずの生物の気配が、まるで意図的に取り除かれたかのように、どこにも感じられなかった。
「……おかしいですわね。地図上では、この先が巨大な広場に通じているはずなのですが」
セリスが足を止め、眉をひそめて前方を見据えた。通路の先。地図では広大な空間が広がっているはずのその場所には、出口を完全に封鎖する無骨な「岩壁」が、数千年の時を経てそこに鎮座しているかのような顔で立ちはだかっていた。表面には風化の跡が幾重にも刻まれ、迷宮そのものが最初からそこに壁を有していたかのような、自然な佇まいを見せている。
「……私にも、ただの壁にしか見えません。風の通り道すら、一筋も感じられませんが」
サツキが《星凪》の石突を地面に響かせ、首を傾げた。武人としての直感ですら、目の前の「無」を疑う手がかりを掴めずにいる。彼女は岩壁の表面に指先を近づけ、僅かな空気の流れすらないことを確認すると、静かに眉根を寄せた。
リィナもまた、澄光星環を掲げ、岩壁の魔力波長を注視していた。だが、返ってくるのは、周囲の石材と何ら変わらぬ均質な反応だけである。
「……私の魔力感知でも、異常は見えません。本当に、ただの石にしか」
リィナの声には、微かな戸惑いが滲んでいた。だが、アレンの漆黒の瞳だけは、その静寂の裏側に潜む「致命的な矛盾」を、既に演算データとして捉えていた。
(……認知フィルターか。それも、迷宮の地質そのものを利用した高度なやつだ)
アレンが掌を広げると、自身の権能である《魔力直接操作》が、空間に漂う微細な「精神波の歪み」を物理的に掴み取った。指先に伝わる感触は、石の冷たさとは明らかに異質な、粘つくような不快な抵抗であった。
「不浄な術式だ。……リィナ、セリス。少し下がっていろ。俺の前では、隠し事などできないぞ」
アレンがゆっくりと岩壁へ手を伸ばした。その指先が、何もないはずの虚空に触れた瞬間、水面に石を投げたような不自然な「波紋」が広がり、岩肌の質感がノイズのように激しく乱れた。まるで長年そこにあったはずの岩の輪郭が、一瞬にして偽りの映像へと成り下がっていくかのようだった。
アレンの右手に、漆黒の魔力粒子が集束していく。
《魔術消去》
――パチン。
軽い指の音が地下空間に鋭く反響した。その刹那、空間を覆っていた「嘘」が、耐えきれぬ高周波の悲鳴を上げ、ガラス細工のように粉々に砕け散った。砕けた幻影の破片が光の粒となって宙に舞い、瞬く間に闇の中へと溶けて消えていく。
「……っ!? 扉が現れましたわ!」
リィナたちが目を見開く。ボロボロと剥がれ落ちた幻影の岩壁の奥。そこにあったのは、迷宮の石材とは決定的に質が異なる、冷たく光る重厚な鋼鉄の隔壁であった。表面には見慣れぬ機構の継ぎ目が走り、この地に本来存在するはずのない人工の匂いを、確かに纏っていた。サハリス王家の公的な地図には決して載らぬ、アーラム機関の隠密拠点――その禁忌の入り口が、今、理外の零番の手によって無慈悲に暴かれたのである。
四人はしばし、その鋼鉄の扉を無言のまま見つめていた。セリスが静かにレイピア《煌光穿》の柄に指をかけ、サツキが薙刀の重心を確かめるように一歩前へと踏み出す。リィナはアレンの背に寄り添うように立ち、自身の呼吸を静かに整えていた。迷宮の奥深くに眠っていた真実が、今、その姿を現そうとしている。理外の零番は、扉の向こうに潜む「何か」を見定めるように、しばし漆黒の瞳を細めた後、静かに一歩を踏み出した。




