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ガルディア公国宮殿別邸、アレンの執務室。先刻までの外交茶会の華やぎは跡形もなく消え失せ、代わりに室内を支配していたのは、大型演算端末の冷却ファンが吐き出す微かな低周波と、幾重にも更新されていくホログラムウィンドウの、冷たく青白い明滅だけであった。窓の外では春の陽が庭園の芝を柔らかく照らしていたが、その暖かさはこの部屋の空気にまでは届いていない。
「アレン様、サハリス砂漠王国より極秘の親書が届きましたわ。王家専用の最優先秘匿回線……完全暗号化通信ですわ」
セリス・ヴァレンティアが、指先で空間の一点をなぞるようにしてアーク・リンクを操作した。展開されたのは、砂漠の沈まぬ太陽と琥珀を象ったサハリス王国の国章。それが不規則な脈動を伴いながら、一人の男の立体映像へと切り替わっていく。
映し出されたのは、南大陸の覇者、国王サイファ・サハリス。日頃の彼を知る者であれば、その眉間に刻まれた深い皺と、琥珀色の瞳の奥にちらつく焦燥の質に、まず息を呑んだはずだ。
『アレン・ヴァルグレイ殿。……儀礼を欠いた無礼を許してほしい。だが、事態は一刻を争う』
サイファの重厚な声が、通信の微かなノイズを越えて執務室に響いた。
『今、バルムートをはじめ各国で起きている要人たちの精神汚染。その正体は、かつて貴殿が捕らえたアザルが研究していた「精神ネットワーク」の完成形だ。……奴が遺した毒液は、地中の深淵で密かに熟成されていたのだよ』
「アザル……。約一年半前、アークレストで沈めたはずの残滓が、まだ蠢いているというのですか」
アレンは背もたれに身体を預け、漆黒の瞳で映像を射抜いたまま動かなかった。長身から放たれる無意識の威圧が室内の空気を静かに圧縮し、机上に残された紅茶の水面が、その言葉に呼応するかのように微かに波打つ。誰も触れていないはずのカップの縁で、透明な液体が幾筋もの細波を描いていた。
『最悪なのは、我が国の至宝がその手に落ちたことだ。……魔軌士No.6、セラフィナ・アルシェル。彼女は消息を絶った。……いや、より正確に言えば、“捕らえられた”のだ』
サイファが苦渋を滲ませて視線を落とす。映像越しにもわかるほど、その拳は震えていた。
『犯人たちの狙いは明白だ。彼女の強大な魔力そのものを、精神汚染を全世界へ増幅するための「中継器」として利用している。彼女が迷宮の深層に繋ぎ止められている限り、放送は止まらず、世界各国の実務中枢は数日のうちに完全崩壊するだろう』
「No.6の魔力を……。道具として冒涜しているというのですか」
リィナ・フェルウェンが、自身の胸元を痛みを分かち合うように強く握りしめた。淡い青色の瞳には、見知らぬ同志への同情と、卑劣な手段への静かな怒りが同時に滲んでいる。彼女の視線はホログラムの向こうにいる王ではなく、まだ見ぬ砂漠の迷宮の暗がりへと向けられているようだった。
『精神干渉を一切受け付けない、理外の存在である貴殿だけが、あの深淵に触れ、彼女を救い出せる。……どうか、源流を叩いてはもらえないか』
サイファ王は一度言葉を切ると、アレンの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その奥に宿るのは、王としての懇願だけではない。一人の人間として、あまりに重すぎる対価を差し出す覚悟であった。
『見返りとして、我がサハリス王家に伝わる門外不出の秘術──“魂の構造解析”の実施を約束しよう。……アレン殿。これを受ければ、貴殿の扉が開くかもしれない』
「──っ」
アレンの指先が、無意識に左腰の《白緋》の柄へと触れた。動作そのものは小さく、誰の目にも留まらぬほどのものであったが、その一瞬だけ、彼の呼吸が僅かに変わったことにリィナだけが気づいていた。
記憶の欠落。銀白色の髪を揺らし、雪の日に微笑んでいた「彼女」の残像。名前も声も思い出せないその存在が、アレンの魂の深層でいつも静かに泣いているような、拭いきれぬ虚無感として彼の内側に居座り続けている。その正体に辿り着くための鍵が、熱砂の迷宮にあるというのか。
「……アレン様。あまりに危険すぎますわ。相手は人の精神を弄ぶことに長けた黒鋼派の残党。解析術式そのものが、貴方を縛るための罠である可能性も捨てきれません」
セリスの青色の瞳に、主を想うがゆえの強い警戒が宿った。彼女は唇を血が滲むほどに噛み締め、 峻烈な声で進言した。
「……ですが、アレン様の失われた時間を取り戻せるかもしれない、唯一の機会でもあります」
リィナの言葉は、祈りのように静かだった。
二人の誓導者の言葉が、部屋の空気の中で相反する重みを持って浮かび、しばらくの間、誰も口を開かなかった。演算端末の駆動音だけが、規則正しく時を刻み続けている。
室内の静寂を、アレンの重い吐息が破った。彼はゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がる公国の街並みを一瞥した。芽吹きかけた庭園の木々の緑が、午後の光を受けて淡く揺れている。その平和な景色から視線を引き剥がし、彼はセリスへと視線を戻した。
「……セリス。サハリスへ返信を打て。依頼は受諾する、とな」
アレンの言葉には、温度を欠いた、しかし鋼のような硬質の決意が宿っていた。
「要人たちの命を救い、俺の力の正体を確かめる。……行かない理由がない」
「……承知いたしましたわ。すぐに手配を。公女王陛下へも、越境任務の登録申請を行いますわ」
セリスは深く一礼し、アーク・リンクを叩いて情報の海へと没入していった。指先の動きに迷いはない。リィナはアレンの隣に寄り添い、その漆黒のコートの袖にそっと触れた。言葉はなかったが、彼女の指先の温度だけが、これから向かう場所の過酷さを暗に語っていた。
サツキ・ハートフィールドは無言のまま、主の背後を守るように直立していた。窓から差し込む光が彼女の茶系のポニーテールを淡く照らし、その静かな佇まいは、これから訪れる遠征への覚悟をすでに固めているようだった。
「サツキ。……今度は砂漠だ。準備をしておけ」
「はい、アレン様。……どこまでも、お供いたします」
理外の零番が下した号令。失われた過去への郷愁と、壊れゆく未来への危惧。その二つを天秤に乗せ、四人の鼓動は再び、戦場へと向けて力強く、三拍子のリズムを刻み始めた。
窓外では春の風が宮殿の庭園を吹き抜けていたが、その風の行き先は、既に遠く南の大陸、灼熱の砂塵が舞う迷宮の入り口へと向かっていた。ホログラムウィンドウの光が静かに消え、室内には再び冷却ファンの低い唸りだけが残った。誰も声を発さぬまま、それぞれが己の役割を胸に刻みながら、旅立ちの準備へと歩を進めていく。窓辺に置かれたティーカップの中で、紅茶の水面はいつの間にか、何事もなかったかのように凪いでいた。




