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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第28章:砂塵の残響

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28-1

女神歴二一九八年、四月上旬。西大陸ガルディア公国の首都ガルディアスは、長く峻烈だった冬の名残をようやく振り払い、色彩豊かな春の陽気に包まれていた。宮殿を取り囲む庭園では、魔導技術によって最適化された湿度と温度が保たれ、剪定された生垣の合間から、百花が競い合うように蕾を開き始めている。噴水の水音が乾いた石畳に規則正しく跳ね、遠くでは庭師たちが低く言葉を交わす声が、風に混じって断続的に流れてきていた。


その庭園の一角、白大理石のテラスが設えられた広間で、小規模な外交茶会が催されていた。出席しているのは、ガルディア公国の実務を担う次官級の閣僚たちと、周辺諸国から春の挨拶に訪れた特使団である。テーブルには薄いレースの布が敷かれ、磨き上げられた銀器が午後の光を弾いて鈍く輝いていた。談笑の合間に立ち昇る紅茶の香気が、庭園の花の匂いと混ざり合い、どこまでも穏やかな午後を演出している。


「アレン様、お茶の温度はいかがですか」


リィナ・フェルウェンが、銀髪を春の微風に揺らしながら、穏やかな所作でアレン・ヴァルグレイのカップにハーブティーを注いだ。彼女の淡い青色の瞳には、社交の場にいる緊張の色よりも、この平穏な時間そのものへの静かな安堵が滲んでいる。その隣では、サツキ・ハートフィールドが一分の隙もない立ち姿で周囲の気配を読み取っていた。彼女の深い茶色の瞳は、華やかな社交の場にあっても武人としての警戒を解かず、庭園の植え込みが風に揺れる角度の一つひとつまで見逃さない。


「……ああ、問題ない。いい香りだ」


アレンは短く応じ、庭園の景色を眺めていた。三人の誓導者を得て、彼の内側の魔力循環は今、かつてないほど完璧な調律を保っている。淡い日差しの下で組んだ手の甲に、若葉の影が揺れていた。セリス・ヴァレンティアもまた、辺境伯令嬢としての気品を纏い、隣席の他国外交官と静かに言葉を交わしている。彼女の凛とした横顔には、この場を担う誓導者としての矜持が滲んでいた。


平和そのものの午後であった。誰もが、次に訪れる季節の色を語り合い、遠国の食文化に興味を寄せ、当たり障りのない世間話に興じている。だが、その静寂は、あまりにも唐突、かつ無機質な音によって粉砕された。


――ガチャンッ。


硬質な陶器が石床に砕け散る音が、談笑の渦を切り裂いた。


「……え?」


リィナが声を上げた先。先ほどまで朗らかに笑っていたガルディア公国の外務次官が、手に持っていたカップを落とし、そのまま糸の切れた人形のように椅子からずり落ちていた。砕けたカップの破片が石床に散らばり、まだ温かい紅茶が白いテーブルクロスへとゆっくり染み込んでいく。


異変は彼一人に留まらなかった。隣に座っていたバルムート王国の特使も、立ち上がろうとした姿勢のまま虚空を凝視し、口を半開きにしたまま動かなくなった。彼らの瞳からは瞬時に「意志」の光が消え失せ、残されたのは、ただ肉体という器だけがそこにあるような、悍ましいまでの無機質な空白であった。周囲の招待客たちが悲鳴を上げ、椅子を蹴倒しながら後退る。給仕係の若い女性がトレイを取り落とし、銀のポットが石床で甲高い音を立てて転がった。


「……リィナ、下がっていろ」


アレンの極低温の声が、凍りついた広間に響く。アレンは一歩も動かず、漆黒の瞳で倒れた要人たちを射抜いた。不自然なほどに静まり返った彼らの魔力波長。それは死でもなければ、通常の昏睡でもない。彼の周囲だけ、空気の密度が僅かに変わったように感じられた。


「セリス、奴らの波長を確認しろ」


「承知いたしましたわ」


セリスが即座に倒れた次官の傍らに跪き、手元のアーク・リンクの解析モードを起動させた。青白いホログラムウィンドウが展開され、次官の胸元から立ち上る魔力の揺らぎを、不可視の触手がなぞっていく。彼女の指先が空を滑るたび、投影された波形が細かく明滅した。


「……っ、これは!? 術式ではありませんわ。特定の周波数を用いた、強制的な『魔力波長の外部固定』。……アレン様、この者の魂は、今この瞬間に何らかの外部干渉を受け、自身の肉体という座標から引き剥がされようとしていますわ!」


セリスの青色の瞳が、驚愕に細められる。彼女が走査を続ける中、解析データの一角が不気味に脈動を開始した。その脈動の源は、次官の胸元にある一点に集中していた。


「……胸元だ。その琥珀色の輝きに見覚えはないか」


アレンの指摘に、セリスが次官の襟元に付けられたラペルピンを拡大表示した。琥珀色の古代ガラスがあしらわれたその装飾品は、午後の陽光を不自然に吸い込み、蒼紫色の燐光を脈打つように放っていた。


「これは……! アレン様、このピンに見覚えがありますわ。昨年の六月、バルムートで開催された世界十五か国首脳会議(WFS)の際、サハリス砂漠王国の代表団から『連帯の記念品』として配られたものですわ。確か、随行した各国の実務級要人にのみ贈られたはず……」


セリスが指先でピンに触れようとした瞬間、アーク・リンクのスピーカーから不快な高周波のノイズが漏れ出した。解析グラフの波形が、正常な魔術体系では説明のつかない不協和音を描き出す。


「この波長……間違いありませんわ。サハリス砂漠王国の《アーラム機関》が極秘裏に研究していたとされる、精神侵食の体系と酷似しています。……このガラスそのものが、外部からの波長を受信するアンカー(錨)となっていますわ」


「サハリス、アーラム機関か。……アザルを捕らえた後も、残党がその毒を撒き続けていたというわけか」


アレンの周囲で、漆黒の魔力が陽炎となって立ち上った。アレンの脳裏には、約一年半前アークレストで対峙した「アザル」という男の、粘着質な執念が蘇っていた。憔悴した顔つきと、それでいて冷徹だった精神魔術の使い手の記憶。あの時完全に断ったはずの糸が、まだどこかで細く繋がっていたことへの静かな苛立ちが、アレンの胸中に沈んでいく。


その時、広間に設置された大型のホログラムモニターが、緊急放送のチャイムと共に切り替わった。


『――臨時ニュースをお伝えします。現在、西大陸の中央諸国、および東大陸の主要都市において、各国政府の次官級要人が相次いで意識不明の重体に陥るという異常事態が発生しています』


画面には、空港のロビーや会議室で、突如として動きを止めた要人たちの映像が、断続的に映し出されていた。記者たちは困惑し、原因不明の「流行病」か「新種のテロ」かと騒ぎ立てている。


『現時点での共通点は不明ですが、被害は今のところ、外務・軍務の実務を担う次官級の閣僚に集中している模様です。各国の行政機能は一部麻痺しており、国際社会には戦慄が走っています』


「……共通点は不明、か。記者の目ではそこにある『輝き』までは見えないようだな」


アレンは画面の中で呆然と立ち尽くす要人たちの胸元を、冷徹な瞳で見据えた。映像の解像度では判別し難いが、彼らの多くが、先ほどの次官と同じ琥珀色のピンを身に着けている。庭園に控えていた護衛兵たちが、事態の異様さに顔を強張らせ、無線端末に何事か囁いていた。


ニュースが「原因不明」と報じる中、この広間で倒れた者たちと、世界中で「無」に帰した要人たち。それらを繋ぐミッシングリンクを、アレンたちは既に琥珀色の不気味な脈動として特定していた。


「セリス、リィナ。……準備をしろ」


アレンの声は、もはや茶会の穏やかさを欠片も留めていなかった。庭園に満ちていた花の香りも、噴水の穏やかな水音も、今や遠く感じられるほどの緊張が、広間全体を支配していた。


「琥珀ガラスを介した精神侵食。犯人の狙いは、各国首脳ではなく、実質的に国家を動かす『実務の中枢』の掌握だ。……この目に見えぬ楔を打ち込んだ源流が、サハリスの砂漠に潜んでいる」


セリスの青色の瞳に、不穏な干渉を許さぬ峻烈な光が宿った。彼女は手元のアーク・リンクに視線を落としたまま、指先を僅かに震わせ、無言の圧力を周囲へ放射した。


「承知いたしました。わたくしたちの『理』を汚す不穏な干渉、この手で断ち切って差し上げますわ」


リィナもまた、アレンの傍らで決然とロッドを構え直す。倒れた次官の傍らに膝をついたまま、彼女は目を伏せ、何かを噛み締めるように唇を引き結んでいた。サツキは無言のまま、主の死角を埋めるように一歩前に出ると、雪原の戦いで得た確かな実感と共に、背後の得物へと右手を添えた。彼女の視線は、既に庭園の出入口や回廊の陰まで、隙のない警戒の網を広げていた。


倒れた次官たちの周囲には、事態を飲み込めぬまま立ち尽くす招待客たちの姿があった。誰かがすすり泣き、誰かが震える声で神の名を呼んでいる。護衛たちが担架を運び込み、医療班が慌ただしく駆け寄ってくる足音が、テラスの石畳に幾重にも重なった。花々の香りに満ちていたはずの庭園は、今や静かな戦場の緊張に塗り替えられていた。


春の陽光に包まれていたガルディアの庭園は、いまや世界の崩壊を告げる静かな戦場へと変貌を遂げていた。理外の零番は、砂漠の彼方に眠る「狂気の残滓」へとその視線を向け、次なる断罪の地平へと足を踏み出したのである。


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