27-15
動乱の余波は、フェルシアの大地を吹き抜ける柔らかな春の風と共に、静かに収束へと向かっていた。
バルトロメウス教授が引き起こした未曾有の「肥料テロ」は、学術国家セレノア王国とフェルシア農業国の合同捜査という形で、迅速、かつ冷徹に処理された。深層魔力による人類の「調律」という悍ましい狂信の事実は歴史の表舞台から抹消され、公式には「新型肥料の予期せぬ化学反応による大規模土壌汚染事故」として隠蔽されることとなった。 それは世界の均衡を維持するための、非情なまでに合理的な判断であった。
「……よし。これで循環は安定するはずだ」
フェルシアナ郊外、地平線の彼方まで続く広大な農地。アレン・ヴァルグレイは膝を突き、掌を土へと戻した。指先の下で、かつて蒼く濁っていた地面が、今はただ静かに、春の陽を吸い込む褐色を取り戻している。
一週間に及ぶ、不眠不休の浄化作業。アレンは《魔力直接操作》を用い、大地に深く染み付いた三十二階層魔石の残滓を、一滴の油を掬い取るような精密さで抽出し続けてきた。 指先から伝わってくるのは、春の陽光を蓄え始めた土本来の、穏やかで温かな拍動であった。かつて肺を圧迫していた、あの鉛のような泥の質感はもはやない。土の匂いも、腐敗した金属のような刺激臭から、湿った木の根を思わせる素朴な香りへと変わっていた。
「感謝いたします、アレン殿。……あなたがいなければ、この国の黄金は永遠に失われていたでしょう」
傍らに立つ国王アウロスが、深く、言葉の重みを噛み締めるように頭を下げた。王の右手には、あの小さなガラス瓶が握られていた。入国直後、不気味な蒼い燐光を放ち、大地と共に断末魔の震動を繰り返していたその瓶の中の土は、今や静かな褐色を取り戻し、王の掌の中で慈しみ深い沈黙を守っていた。瓶を握る指先には、この一週間で幾度となく祈るように力を込めた痕跡があるのか、微かに白くなった跡が残っていた。
だが、この「救済」がもたらした波紋は、フェルシアの国境を越え、世界の深部へと不穏な形で広がっていた。
西大陸南西、バルムート王国の国際同盟事務局。窓のない円卓の会議室では、数大陸の代表たちがアーク・リンクに映し出された「フェルシア事象報告」を前に、底冷えするような不信感を募らせていた。
「……カザリアの内乱を独断で平定したかと思えば、今度はフェルシアの『理』を塗り替えたというのか」
一人の代表が、忌々しげに吐き捨てた。彼らの目には、アレン・ヴァルグレイという存在は救世主ではなく、国家の主権という枠組みを個人の意志で容易く書き換えてしまう「制御不能な特務官」として映っている。
魔軌士局本局にも、各国から「No.0の権限が強大すぎないか」という、悲鳴に近い抗議ログが秒単位で殺到していた。
アレンが無実であった事実は重要ではない。
世界にとっての恐怖は、彼が一国の運命を左右する事態の「中心」に常に存在し、それを力ずくで解決できてしまうという、その絶対的な特権性にあった。
そんな世界の喧騒を余所に、帰還前夜のフェルシア王宮テラスでは、アレンたちへの感謝を込めた小規模な晩餐会が開かれていた。夕暮れの薄紅に染まった空の下、テーブルには白い布が広げられ、ランタン型の魔導灯がやわらかな橙色の光を落としている。
「皆様、お待たせいたしましたわ! フェルシアが誇る『最高級魔力牛のステーキ』ですわ!」
セリス・ヴァレンティアが、給仕を待たずにはしゃいだ声を上げて大皿を運んできた。
テーブルに置かれた肉は、見事なサシの入った厚切り。黄金小麦を食べて育った牛の脂が、鉄板の上で弾けるような音を立て、食欲をそそる香ばしい匂いを夜風に乗せている。立ち昇る湯気が、ランタンの光を受けて淡く輝いた。
「アレン様、見てください。この柔らかさ……ナイフが必要ないくらいです」
リィナ・フェルウェンが、淡い青色の瞳を輝かせて切り分けた一口を口に運んだ。
「んんっ……美味しいです! 一週間の疲れが、全部溶けていくみたい……」
リィナが頬を緩める隣で、セリスもまた気品を保ちつつ、その表情を蕩けるように緩ませていた。
「…………」
アレンがふと視線を向けると、そこには驚異的な速度で肉を口へと運ぶサツキ・ハートフィールドの姿があった。
彼女は無言だった。だが、そのフォークの動きには迷いがない。頬をリスのように膨らませ、真剣な眼差しで「最高級」と向き合っている。一口食べるごとに、彼女の周囲に漂っていた武人としての鋭い気配が、深い充足感という名の柔らかなオーラに上書きされていく。
「……サツキ、そんなに急がなくても肉は逃げないぞ」
アレンが苦笑しながら声をかけると、サツキは一瞬だけ動きを止め、コクンと頷いた。その口元は微かに緩み、満足げな吐息を漏らしている。
アレンはワイングラスを置き、テラスから広大な農地を見渡した。
地平線の彼方まで続く小麦の海が、沈みゆく太陽に照らされ、文字通り真の黄金色に輝いている。かつての「不純な罠」としての輝きではない。人々の生活を支え、命を繋ぐための、誇り高い収穫の光だ。風が吹くたびに、穂先が波打つように揺れ、乾いた音を立てて夕陽の残照を弾き返していた。
「……まあ、たまにはこういう汚れ役も悪くないか」
アレンは小さく、誰に聞かせるでもなく呟いた。
壊すことだけが、彼の理外の力の役目ではない。理を歪められた場所を、本来あるべき姿へと戻す。国際社会から向けられる不信の波紋がどれほど冷たくとも、この三人の楔たちが織りなす賑やかな声を背中で聴いている限り、その孤独は耐えがたいものではなかった。
穏やかな夕焼けが、四人の影を石床に長く、美しく描き出していた。テーブルの上でランタンの灯りが揺れ、遠く農地の向こうから、収穫の季節を告げる乾いた風の音だけが、静かにテラスへと運ばれてきていた。




