27-14
フェルシアナ郊外、第一試験農場。戦いの後の静寂を支配していたのは、立ち昇る泥のような魔力の残滓と、肺を圧迫する不快な高周波の耳鳴りだった。怪物化から解かれ、抜け殻のように頽れたバルトロメウス教授の周囲では、彼が福音と信じた不純な燐光が、行き場を失った影のように力なく揺らめいている。萎えた小麦の穂が風もないのに小さく震え、根元から染み出す蒼い残光が、農場全体をいまだ不吉な藍色に沈めていた。
「アレン様、こちらを。……すべて、この中に記録されていましたわ」
セリス・ヴァレンティアが、研究所から確保したアーク・リンクを手にアレンの傍らへと歩み寄った。彼女の青色の瞳には、一国の権威を背景に行われた卑劣な欺瞞への、底冷えするような軽蔑が宿っている。彼女が空中に指先を滑らせると、巨大なホログラムウィンドウが戦場の虚空に展開された。投影された光が、崩れた観測機材の残骸を青白く照らし出す。
「これは……!?」
駆けつけた国王アウロスが、投影されたデータを目にして息を呑んだ。護衛の兵士たちを引き連れ、王としての体面を保つ余裕もなく駆けてきたその足取りには、乱れた息づかいが隠しきれずに滲んでいた。
そこには、二一九六年に帝国からレンタルされた『三十二階層ボス魔石』の波長ログと、それをデジタル加工してアレンの魔力署名へと書き換えた、捏造のプロセスが克明に記されていた。科学的な「正しさ」を装っていた鑑定書の裏側にあったのは、ただの稚拙で、それゆえに悪質な、一人の狂信者によるプログラムの改竄であった。
「陛下……我々は、とんでもない過ちを……」
傍らにいたセレノア王国の魔術理論監察官が、青ざめた顔で自身の指先を見つめたまま震えていた。学術国家としての誇りは、自国の最高権威が犯した「理」の冒涜によって、今、粉々に砕け散った。彼の視線は宙のホログラムから離れず、まるでそこに映る数字が自分自身を断罪する判決文であるかのように、繰り返し同じ一点を見つめ続けていた。
アウロス王は、泥に汚れ、蒼い燐光を帯びて震える大地にゆっくりと視線を落とした後、アレンの正面へと歩み出た。 そこにいたのは、自身の無知と権威への盲信によって、救世主を不当に貶めた一国の主としての、深い悔恨を背負った男であった。
「アレン・ヴァルグレイ殿。……申し訳ない、という言葉だけでは、この不忠を贖うことはできぬ。……王宮へ向かう車中、貴殿が発した『重い』という警告を、私は……組織の権威という偽りの光に目が眩み、聞き流してしまった」
アウロスの声には、一国の主としての、取り返しのつかない決断を下した男の深い悔恨が滲んでいた。名声ある英雄の直感よりも目の前の数値を、個人の警告よりも学術の権威を信じた判断の重さは、今、二割が消失した王都の惨状という、あまりにも残酷な代償となって彼に突きつけられていた。それに続くように、セレノアの魔術理論監察官もまた、自身の非を認める深甚なる謝罪を口にした。頭を垂れる二人の背後で、護衛の兵士たちが視線を落とし、言葉もなく立ち尽くしていた。
だが、アレンはその謝罪を、感情を削ぎ落とした無機質な瞳で見つめるだけだった。
「……謝罪は必要ない。あんたたちは、ただ自分が理解できない『理外』の現象を、既知の物差しで測ろうとして失敗しただけだ」
アレンの声は、冷たい夜風のように戦場を通り抜けた。彼は膝をつき、掌をフェルシアの土へと戻した。
指先から伝わってくるのは、土壌の深部で不純な魔力に窒息しかけている、大地の悲鳴。教授が撒いた「泥」は、もはや作物や市民の体内だけでなく、この国の循環系そのものに深く、黒い重油のように絡みついていた。膝をついたアレンの周囲だけ、地面が微かに沈み込み、彼の触れる土から鈍い蒼光が細く漏れ出していた。
「アレン様、大地の拍動が……不規則です。現代魔術の浄化術式では、この密度の『重さ』を取り除くには時間が……」
リィナが膝をつき、澄光星環を大地にかざして診断を下した。
彼女の淡い青色の瞳には、広大な農地を侵食する汚染の規模に対する、絶望的な予測が滲んでいた。通常、現代魔術でこの規模の浄化を行うには数百人の魔術師と数年の歳月を要する。だが、この国にそれほどの猶予はない。ロッドの先端から漏れる光が、大地の脈動に呼応するように不規則に明滅していた。
アウロス王が、縋るような眼差しをアレンに向けた。
「アレン殿……厚かましい願いであることは百も承知している。だが、このままではフェルシアの黄金は永遠に失われ、民は自身の魔力に焼かれて死にゆく。……アレン殿、この汚染された大地を……理を戻すことは可能なのだろうか?」
アレンは、自身の蔦状の紋様が刻まれた胸元を静かに押さえた。内側の魔力は、三つの楔を得たことで完璧に調律されている。
「……時間はかかるが、俺にしかできない仕事だ」
アレンは立ち上がると、視線を遠く地平線へと向けた。夕闇に沈みかけた小麦畑の輪郭が、蒼い残光と混ざり合い、境界の曖昧な影となって広がっていた。
「現代魔術の浄化は、汚れの上から清浄な術式を上書きする。だが、この大地を侵食しているのは、術式ではない『質量を持った不純物』そのものだ。上書き(マジック)ではなく、直接抽出でなければ根源的な解決にはならない。……俺の《魔力直接操作》なら、土壌を傷つけることなく、泥だけを物理的に引き剥がせるだろう」
技術的な裏付けを伴う冷徹な回答。アウロス王は、その「救済の可能性」に震える手で自身の顔を覆った。喉の奥から漏れた声は、もはや王としての威厳を保てぬまま、ただの一人の男の嗚咽に近かった。
「頼む……。フェルシアを……我が国の『理』を、救ってくれ」
「……理を戻すのは、俺の仕事だ」
アレンが踵を返すと、漆黒のコートが戦場の風を孕んで波打った。彼の視線は、もはや謝罪する王にも、崩れ落ちた狂信者にも向けられていない。ただ、黄金色を失い、不気味に震え続ける世界の循環だけを見据えていた。
「サツキ、セリス、リィナ。……少し、時間がかかるぞ」
「はい。どこまでもお供いたします、アレン様」
サツキが星凪の石突を力強く地面に響かせた。乾いた音が静まり返った農場に短く反響し、やがて風に溶けて消えていく。リィナとセリスもまた、主の決意を支えるべく、それぞれの得物を静かに構え直す。
黎明の空から、冷たい光が差し込み始める。焦げた土と蒼い残光の匂いが混ざり合う中、かつての救世主は、断罪の汚名を自らの手で粉砕し、今度は一国の「理」を繋ぎ止めるための、孤独で理外の浄化作業へと、その足を踏み出した。




