27-13
フェルシア農業国の心臓部、フェルシア魔力農業研究所の敷地内に広がる「第一試験農場」。かつては世界を救う黄金の波がどこまでも続いていたその場所は、いまや現世の理が剥落した「深淵の祭壇」へと変貌を遂げていた。
大気は、本来ならば迷宮の深層、それも三十階層以降にしか存在し得ない、あの肺を直接握りつぶすような「重い魔力」の霧に塗りつぶされている。視界の端々では蒼い燐光が火花のように爆ぜ、土壌から溢れ出した不純物は、目に見えるほどの質量を伴った泥濘となって地表を這い回っていた。かつて風にそよいでいた小麦の穂は、今や不気味な燐光を纏いながら根元から折れ、地面に沈んでいく。潰れた麦の穂から漏れ出す蒼い光の粒が、まるで生き物のように地表を這い、周囲の空気を鉛のように重くしていた。
「素晴らしい……。これだ、この拒絶反応こそが、真の調律への産声だ……!」
実験圃場の中央。バルトロメウス教授は、狂おしく笑いながら手にした試験瓶の原液を一気に煽った。不気味な紫黒色の液体が喉を鳴らして飲み込まれた瞬間、彼の痩せた肉体が不自然な拍動を開始した。
ドクンッ!!
空間を物理的な衝撃が揺らした。教授の血管が蒼い燐光を帯びて体表に浮き上がり、破裂せんばかりに膨張する。叫び声は瞬く間に獣の咆哮へと変わり、背中からは三十二階層ボス魔石の残滓を反映した、黒鋼色の歪な甲殻が突き出してきた。骨が軋む音、皮膚が裂ける湿った音が、静まり返った試験農場に不快に響き渡る。それは人間でも魔獣でもない、ただ「不純な力」に意志を上書きされただけの、歩く災害──深層の化身であった。
「グゥ、オォォォォォォッ!!」
巨大化した怪物が咆哮とともに地を蹴った。石畳が粉々に砕け散り、圧縮された空気が衝撃波となって周囲の観測機材を紙細工のように粉砕する。折れ曲がった金属の残骸が宙を舞い、鈍い金属音を立てて地面に転がった。
「──逃がしませんわ! 《閃光砲》!」
その破壊の突進を、セリス・ヴァレンティアの峻烈な火力が正面から迎え撃った。
オリハルコン製のレイピア《煌光穿》から放たれた極太の光熱ビームが、大気を焼き切りながら怪物の胸部を直撃する。セリスの放った上級複合魔術は、怪物の重厚な甲殻を真っ赤に焼き焦がし、その巨躯を強引に数メートル後退させた。焦げた甲殻の破片が地に落ち、赤熱した縁が土の泥濘を蒸発させる音を立てた。
「リィナ、防御を! サツキさん、そのまま削りなさい!」
「はい、セリス! 三重魔導護膜、最大出力!」
リィナがロッドを振り、三人の周囲に強固な光の膜を定着させる。大気に飽和した重い魔力が護膜を叩き、パリン、パリンと硬質な不協和音を響かせるが、リィナの精密な制御は一点の曇りもなくその安定を維持していた。展開された光の膜の内側だけが、外界の重い澱みから切り離されたように、わずかな清涼さを取り戻している。
「──行きます」
その爆炎の隙間を縫い、サツキ・ハートフィールドが弾丸のような速度で躍り出た。
手にするのは、アダマンタイト製の薙刀《星凪》。アレンから分かたれた「三拍子の鼓動」が、彼女の深層回路をかつてないほどに活性化させていた。サツキは魔力感知を一時的に切り捨て、武人としての極限の反射神経のみを研ぎ澄ます。呼吸を一つ、静かに整えると、彼女の瞳から一切の迷いが消えていった。
「はぁぁぁッ!!」
踏み込みの一歩で地面が陥没した。サツキは《星凪》を旋回させ、怪物の振り下ろした巨大な鉤爪を真っ向から受け止めた。
キィィィィィィィィィィン!!
トラヴァン製の特殊回路が不純な干渉を完全に遮断し、アダマンタイトの絶対的な硬度が怪物の膂力を力任せに弾き返す。
武技《月影・連閃(ムーンリット・コンセキュティブ・フラッシュ)》。
サツキはそのまま、鋭い三連撃を繰り出した。
シュパッ、シュパパッ!!
魔術式を介さないその「鋼の音」だけが、魔力の霧を切り裂いた。怪物の強固な甲殻が、紙を裂くような音を立てて無残に剥がれ落ちる。剥がれた甲殻の破片が土に突き刺さり、蒼い燐光を弱々しく揺らめかせながら沈黙していった。サツキの動きは、もはや怪物の動体視力を完全に置き去りにしていた。
「……随分と、鈍いですね。深層の守護獣を気取るなら、せめて一太刀くらいは合わせていただきたいものです」
サツキの瞳には、冷徹な武人としての輝きが宿っていた。彼女は怪物の懐へ潜り込むと、薙刀の刃を怪物の首筋へと正確に添えた。あと数ミリ滑らせれば、その巨躯はただの肉片に成り果てる。だが、サツキはその刃を、寸前のところで静止させた。刃先が触れる寸前の皮膚が、蒼白い光を帯びてわずかに震えているのが見て取れた。
「……アレン様に叱られますね。ここで殺しちゃ、まずいかな」
サツキが僅かに口角を上げた、その時だった。
パチンッ。
戦場の狂乱を無に還す、乾いた指の音が響いた。
「……ようやく、ピースが揃ったな」
空間が不自然に歪み、一人の男が霧の中から静かに姿を現した。アレン・ヴァルグレイ。監獄の結界を《魔術消去》で解体し、《空間転移》で直接この戦場へと跳躍してきた「零番」。彼は無造作に右手を虚空へ差し向け、《空間収納》から二振りの牙──《白緋》と《蒼断刃》を引き出した。抜き身の刀身が、農場を覆う蒼い燐光を映して淡く輝いた。
アレンの周囲では、溢れ出した漆黒の魔力が陽炎となって渦巻き、大気を物理的な質量で沈み込ませている。彼が一歩踏み出すたび、足元の泥濘が押し退けられ、乾いた地面が顔をのぞかせた。
「サツキ、そこを動くな。……不純物は、まとめて処理するのが合理的だ」
アレンが掌を広げると、試験農場に浸透していた鉛のように重い魔力の霧が、巨大な掃除機に吸い込まれるように彼の掌へと集束し始めた。周囲の空気が唸りを上げながら渦を巻き、農場全体を覆っていた不気味な藍色の靄が、みるみるうちに薄れていく。
《魔力直接操作》。
属性も術式も介さない、ただ「そこにある力」の上書き。圧縮された不純物は質量を持った「黒いヘドロ」の塊へと変えられ、怪物の足元へと叩きつけられた。重力加速度を増した魔力の塊が、怪物を大地ごと、その場に縫い留める。ずしゃり、と地面が沈み込む重い音が響き、怪物の巨躯が身動きを封じられて激しく身をよじった。
アレンは最短距離で踏み込み、もがく怪物の胸元へと、掌を吸い付くように添えた。
「浄化を語るなら、まず自分の汚れを落としてからにするんだな」
《衝撃制御・零距離衝撃》
ド、ンッ!!
内臓を揺らすような重低音が農場全体を震撼させた。地面に転がっていた金属片が跳ね、遠くの観測小屋の窓硝子が音を立てて震えた。アレンの放った衝撃は、肉体を破壊するためではなく、内部に定着していた「三十二階層魔石の不純物」だけを、物理的に「外へと弾き出す」ための、精密な理外の介入であった。
「あ、…………が…………」
怪物の背中から、蒼黒い泥が爆発的に噴き出した。直後、燐光が霧散し、巨大な異形が急速に萎えていく。萎縮していく肉の下から、痩せこけた老人の輪郭がじわりと浮かび上がってきた。後に残されたのは、魔力回路を根源から焼かれ、廃人同然となって膝を突く、ただの老人の姿であった。彼が求めた歪な「光」は、理外の零番による拒絶によって、永久にその回路から失われた。
吹き荒れていた魔力の不協和音が、嘘のように凪いでいく。噴き上がっていた蒼い燐光は次第に力を失い、農場を覆っていた重苦しい澱みが、まるで潮が引くように地表から薄れていった。アレンはゆっくりと手を引くと、崩れ落ちる男を支えることもせず、ただ冷徹にその結末を見下ろした。
「……終わったな」
足元の大地が上げている濁った悲鳴は、まだ止まってはいない。だが、この地に戦火を求めた狂信者の夢は、今、完全に粉砕された。アレンは右腰の《蒼断刃》を確かめるように一撫でし、沈黙を守り続ける広大な小麦畑へと、静かに視線を向けた。地平線まで続く枯れた穂の海が、夕闇に沈みながらわずかな蒼い残光を宿していた。




