27-9
フェルシア王宮地下、高密度魔力封印房。
保安官たちが去った後の独房を支配していたのは、結界発生器が放つ無機質な高周波ノイズと、アレン・ヴァルグレイが自身の内に繋ぎ止めた漆黒の魔力が織りなす、深い沈黙であった。窓のない石壁に囲まれた空間。天井から吊るされた魔導灯が、アレンの無表情な横顔に硬質な陰影を落としている。壁を伝う結露にも似た魔力の粒が、時折パチリと音を立てて弾け、独房の静けさに小さな亀裂を刻んでいた。
重厚な防魔扉が、再び不快な金属音を立てて開かれた。
入室してきたのは、国家保安局の役人ではない。灰白色の乱れた髪を肩に散らし、眼鏡の奥で焦点の定まらない薄い青の瞳を輝かせた男――バルトロメウス・エルド教授であった。彼は背後の扉を閉じさせ、監視魔術の目を遮断する個人的な術式を展開すると、獲物を見定めた肉食獣のような歪な笑みを浮かべて一歩、アレンへと歩み寄った。足音は妙に軽やかで、まるで長年待ち望んだ再会を楽しむかのような弾みを含んでいた。
「……素晴らしい。間近で見れば、その魔力波形はまさに芸術だ。現代魔術の稚拙な定規では測りきれぬ、深層迷宮そのものの質感……」
教授の声は、学術的な興奮を通り越し、病的な陶酔に浸っていた。彼はアレンの手首に嵌められた拘束具に視線を落とし、さも愛おしげに言葉を繋ぐ。眼鏡の奥の瞳は、まるで信仰の対象を目にした信徒のように潤んでいた。
「魔軌士No.0。貴殿は、人類で唯一『深淵の光』に耐えうる器だと思っていた。だが、その力を独占し、世界を欺き続けてきた罪は重い。……各地の迷宮から持ち出した不純物を、あのような不完全な『理外の収納空間』の中に秘匿し続けるなど、学術的な冒涜以外の何物でもない」
アレンは胡坐をかいたまま、睫毛一つ動かさずに教授を見据えた。
(……これが、この国の理を歪めた『知性』の正体か。魔力波長が、自己の妄想と期待で黒く濁りきっている)
「……教授。お前の言う『浄化』の正体が、あの土壌に染み付いた泥だというのなら。……随分と、程度の低い福音だな」
アレンの極低温の指摘に、教授の表情が激しい狂気へと塗りつぶされた。彼は両腕を広げ、見えない信徒へ語りかけるように叫んだ。その声は独房の壁に反響し、幾重にも重なって不気味な残響となった。
「程度が低いだと!? 違う! あれこそが人類のあるべき姿、封印されし『黒き災厄』へと同調するための唯一の鍵なのだ! 文明という名の枷で汚れた人類の魔力循環を、深層の純粋な魔力によって書き換える。……貴殿を汚染者として断罪し、世界が底知れぬ恐怖に沈んだとき、人々は救いを求めて私の『浄化』に縋るしかなくなるのだよ!」
教授の背後から立ち上るのは、三十二階層ボス魔石から抽出された、不自然に研ぎ澄まされた不協和音。彼はそれを、進化だと信じ込んでいる。独房の空気そのものが、その言葉に呼応するように微かに震えていた。
「恐怖こそが最高の肥料だ。アレン・ヴァルグレイ。貴殿には、その不気味な特権性を以て、世界を救済へ導くための尊い生贄となってもらおう。……貴殿が『理外の空間』を開かぬ限り、無実を証明する手立ては、この世界のどこにも存在しないのだからな」
アレンは暗闇の中で、口元に氷のような笑みを刻んだ。
教授の計画は、科学的な偽造と、アレンの秘匿能力(空間収納)を「隠蔽の道具」として定義するロジックの上に成り立っている。確かに、既存の魔術体系の中にいる者たちには、この陥穽を破る術はないだろう。教授の理屈は、一見して緻密であり、隙のないもののように思えた。だが、それはあくまで「人間の理」の内側でのみ通用する、脆い虚構に過ぎない。
だが、教授は決定的な事実を見落としている。
「……お前が見ているのは、救済じゃない。ただの拒絶反応だ」
アレンの言葉が、密室の空気を物理的に凍てつかせた。
「迷宮の魔力が人間に馴染むはずがないだろう。お前が調律したというあの泥は、大地の循環を止めるだけの不純物に過ぎない。……お前の妄想が完成する前に、この国は自らの魔力の重さに耐えかねて、内側から自壊する」
「黙れッ! 凡俗な魔術師が、私の真理を汚すな!」
教授は逆上し、激しい足取りで独房を後にした。彼の足音は乱れ、慌てふためくように扉の向こうへと消えていく。重厚な扉が閉まり、再び訪れた静寂だけが、独房の中に取り残された。
アレンは掌を石床へ戻し、自身の蔦状の紋様が刻まれた胸元を静かに押さえた。指先に伝わる紋様の熱は、先程よりも僅かに強くなっているように感じられた。大地の不快な鼓動は、教授の言葉を証明するかのように、一刻ごとにその「重さ」と「澱み」を増している。
(……救済、か。……下らないな)
冷徹な観測者の瞳に、漆黒の光が宿る。
狂信者が描き出した偽りの福音。その設計図の全てをアレンは読み取った。あとは、自身の背後を任せた三人の楔たちが、その「嘘」の根源を掴み取ってくるのを待つだけだ。彼は静かに目を閉じ、遠く離れた場所で動いているであろう三人の鼓動を、改めて胸の内に確かめた。
監獄を支配する重厚な静寂の中で、理外の零番は、裁きの刻を測るための瞑想へと再び沈んでいった。独房の奥で明滅する魔導灯の光が、彼の影を不気味に揺らし続けていた。天井の隅で、結界発生器がひときわ高い音を立てて唸り、その音が独房の空気をわずかに震わせた後、また元の静寂へと沈んでいった。




